孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

東京五輪で風俗店を摘発した、女性警察署長を評価できるのか?

文春オンラインの記事によると、今年5月に上野のピンクサロン店「マジックバナナ」が摘発されるまで、警視庁が、ピンクサロン店に、公然わいせつ罪を適用したことがなっかた。その立役者となったのが、今年2月に上野警察署長に就任した、鈴木佳枝署長である。鈴木署長は、警視庁のノンキャリアで、「風俗嫌い」で有名。彼女が、署長に就任してから、ヌキありの性的サービスを提供した外国人マッサージ店の摘発など管轄エリアで続いているそうである。この文春の記事、女性警察署長を褒めたたえているようで、不愉快極まりない。オリンピックやサミットがあれば、風俗店への取り締まりが、建前上、厳しくなって当然である。大きなイベントが終われば、元に戻る一過性のものに過ぎない。風俗店の営業許可申請などの風営法の権限を掌握しているのは、警察である。そうした権限を持っているが故に、警察と風俗業者の癒着が生まれてきたことは、誰もが知る事実ではないのか。がさ入れ期日などの捜査情報を教える見返りに、接待などを受けて、逮捕される警察官は後を絶たない。ドラマに出てくる悪徳警察官を地で行くような、現職の警察官は、かなりの数存在する。お金を払わずに、遊んでいくという警察官もいるのだから、やくざよりも悪質だ。橋下徹が、大阪の飛田新地の顧問弁護士であったことなど取り立てて、驚くべきことではない。飛田新地など警察が黙認している。また、パチンコ店も、警察利権の1つとして見逃せない問題を孕んでいるいる。三店方式、警察官の再就職先など。大きいパチンコ店などが加入する、パチンコストア協会のアドバイザーに、大物政治家らの名前が連なっているのを見ると、この業界も闇が深いことが、一目瞭然である。性風俗産業やパチンコ業界と警察との関係は、長年の宿痾であり、クリーンなものにはなり難いと思う。文春オンランは、ノンキャリアであり、しかも、女性であることを強調してまで、上野警察署長の摘発を英断とする感じがしてならない。文春砲で、名を馳せた文芸春秋であるが、どうも個人的に好きになれない。このように、警察の表面的なことしか書かない、それも肯定的に。所詮は、歴史と伝統のある、保守的な雑誌である。警察不祥事が毎日のように続発しているのに、知らぬ顔を決め込む。ますます、警察は付け上がり、やりたい放題するようになるだろう。

 

 

みんなが結婚する社会は幸せなのか?幸福度格差について

プレジデント・オンラインで、拓殖大学の佐藤一磨準教授が、結婚と幸福度の関係について論じている。かつては、誰もが結婚できた、皆婚社会だと、未婚にある者がつらくなる、「未婚ペナルティ」が生じるとする。一方、現代のように、脱皆婚社会は、結婚という選択を以前よりも周囲の環境を気にせず、自分の意思で決めることができるので、昔より生きやすいと主張している。とんでもない、的外れな見解だと思う。著者は、労働経済学が専門の研究のようであるが、極めて、フェミニズム思想に近い発想で、結婚を論じてしまっている。生涯未婚率男性23%、女性14%という数字は異常としか考えられない。「未婚」という選択肢を主体的に選ぶ、独身貴族は、ごく少数の勝ち組である。彼らは、恋愛経験も豊富で、常に、付き合う相手がいる状態で、仕事とプライベートを謳歌している。そんな男性に合わせて、この佐藤一磨準教授の文章が書かれたようなものである。そこには、恋愛弱者男性の存在が、まったく視野に入っていない。未婚の男性の大半は、結婚を望んでいるのである。だから、これほどに、マッチングアプリが利用されているのではないだろうか。残念なことに、婚活の熾烈な競争で、多くの男たちが、脱落して、虚無的になり、「もう自分は、一生結婚などできない」と諦め、恋愛市場から去っていくのである。佐藤一磨教授は、皆婚時代の負の側面ばかりをしてきするが、皆婚時代こそ、社会がうまく機能していた事実を見逃している。お見合い結婚が、主であった時代は、まじめに働いてさえいれば、誰もが結婚できた。家同士の関係や、近所の世話役などの顔を立てるための結婚に、フェミニストは、女性の尊厳を奪うものだとして、糾弾し続けてきた。お見合いの席で、初めて見た、顔が、不細工であっても、かつての女性は、結婚に踏み切った。現代では考えられないことだ。極論すれば、「女が男の顔にとやかく、品定めする」ことが、結婚どころ恋愛できない男を大量生産するようになった。フェミニストが主張したことは、結果的に男性が生きづらい社会にさせたのではないだろうか。佐藤一磨準教授のように、リアルな恋愛弱者男性を無視したまま、結婚や恋愛を論じる学者、専門家、あるいは作家があまりにも多いように思えてならない。

宮根誠司だけではなく、不遜な態度の芸能人にオリンピックの不祥事を語る資格などない

宮根誠司が、「情報ライブミヤネ屋」で、国立競技場周辺から、リポートするディレクターに取った態度がネット上で批判されている。宮根誠司だけではないと思う。大物司会者が、番組スタッフに、パワハラまがいのことをするのは、常習的に行われているはずだ。亡くなった、やしきたかじんなどは、番組の中で、АDを「ボコボコにしばいた」と、自慢していた程である。週刊誌に取り上げられない限り、芸能人たちの素顔を知ることができない。しかし、よくテレビを見て、人間観察に長けた人であれば、彼らの意挙手一投足から、その人間性を推察できるはずである。そんな、大物芸能人たちが、今オリンピックの関係者の不適切発言に対して、辛口なコメントをしている。小山田圭吾の過去の「いじめ経験」に次いで、次は、小林賢太郎の「ユダヤ人大量虐殺を揶揄するコント」が炎上している。メディアは、大物芸能人が、どのような切り口で、この2人を批判するか、競って垂れ流している。小山田圭吾小林賢太郎、のしたことは、倫理的に絶対許されるものではない。しかし、同業の芸能人たちに、彼らのことを、とやかく言う資格などあるのか、はなはだ疑問である。「自分は、清廉潔白なのか、胸に手を当てて考えろと」言いたい気持ちにさせられる。坂上忍など、いったい何様のつもりなのか。私は、坂上忍がテレビに映っただけで、チャンネルを回してしまう。それぐらい、坂上忍が嫌いだ。「バイキング」では、スタッフへのパワハラ疑惑があったが、いつのまにか忘れさられた。「ブスは嫌い」などの不適切発言など、とかく問題のある人物であることは間違いない。子役上がりの芸能人は、質が悪と言われるが、その代表格である。その坂上忍までもが、今回の小山田圭吾の件について、発言しているのだ。芸能人など、自分の立ち位置を常に計算している人間である。そんな手合いが、政治や社会のことについて語ることが、トレンドとされるようになった。評論家や学者の、難しい言葉ではなく、庶民感覚を代弁してということらしいが。とんだ大間違いだと思う。お笑い芸人は、人を笑わすこと、俳優は、演技だけに専念して、政治や社会のことに口をはさむべきではない。やるのであれば、自らの笑いの中に社会風刺の効いた、ネタを盛り込むとか、もっと別の手法があると思う。

無実の罪で29年間刑務所に、末期がんの桜井昌司さんが今伝えたいこと

布川事件で雪冤を果たした、桜井昌司さんが、「俺の上にには空がある広い空が」マガジンハウスとういう本を出版した。布川事件は、1967年に茨城県利根町布川に住む62歳の大工の男性が殺害された事件である。犯行当時、素行不良者のリストから、桜井昌司さん、杉山卓男さんが、警察から目を付けられ、犯人にでっちあげられた。逮捕当時、桜井昌司さんは、20歳以後、過酷な人生を強いられる。1970年に、水戸地方裁判所で、無期懲役、1978年に上告棄却で、千葉刑務所に収監される。再審請求を繰り返し、2011年に、ようやく無罪が確定する。20歳で逮捕され、49歳で、仮釈放。無罪判決を得た時は、すでに、64歳。その壮絶な人生は、私たちの想像を絶する。詳しいことは、「ショージとタカオ」井出洋子、文芸春秋。または、その映画で知ることができる。仮釈放後は、働きながら、自らの潔白を訴え続ける。桜井昌司さんを支えたのは、何よりも奥様である。支援団体の団員であった、奥様は、桜井昌司さんに一目惚れする。当時離婚していて、子供たちが大きくなり、結婚を決意する。犯罪者と再婚することに、周囲から猛反発されるが、結婚の意思を曲げなかった。奥様と二人三脚で、無罪を勝ち取るのは、あまりにもドラマチックである。布川事件では、知人のズボンを盗んだとして、別件逮捕される。杉山卓男さんも同様に。桜井昌司さんと杉山卓男さんが、一緒にいるのを見たとういう目撃証人が表れたことが、2人を犯人であることを決定付ける。この目撃証人が、警察側の都合のいい事ばかり証言するのは、あまりにも不自然であり、警察の作為を感じてしまう。犯行現場から、指紋などの物的証拠など何も発見されていない。自白と目撃証言だけで、犯人にでっちあげられた、典型的な冤罪である。桜井昌司さんは、自白調書を作りあげた、3人の警察官を匿名で綴る。私は、この3人の警察官を実名で書いても良かったのではないかと思う。冤罪の大半は、警察官による、違法な取り調べによって生じる。最近では、滋賀県警によって、虚偽の自白をさせられた、西山美香さんが、その最たるものである。知的なハンディキャップに付け込んで、自白を強要した、警察官の名前は、ネット上で知ることが出来る。取り調べ室での、警察官らの人権蹂躙は、無くなる兆しがない。全ての事件に、取り調べの可視化を適用あるいは、弁護士立会いを義務付けるべきだ。刑務所を出所した桜井昌司さんに対する、地元の人たちの目はあまりにも冷たい。それに対して、桜井昌司さんは、次のように、言われている、「その時学んだんです。そうか、間違ったことでも納得できればいいのが世間なんだ、世間の中は残念ながら正しいことでは動いていないって。」何と深みのある言葉か。ステージ4の直腸癌の桜井昌司さんの戦いは、まだ終わっていない。

 

統合失調症という病気についての、精神科医と患者の認識のずれ

統合失調症」という病気は、非常に難しい病気だと思う。色々な本を調べたら、妄想や幻覚が生じる、陽性症状。意欲や、気持ちが落ち込む、陰性あるいは、破瓜状態と呼ぶもの。その他、統合失調症型パーソナリティーなどと定義づけられている。かつては、「不治の病い」と恐れられ、一生、病院に隔離されなけらばならない病気だった。しかし、近年、薬物の進歩によって、寛解するようになった。こういったことは、表面的に、精神科医が啓蒙している部分があるように思えてならない。昔であれば、人里離れた精神病院しかなかったが、街にメンタルクリニックが乱立し始めた。街のメンタルクリニックを受診すると、待合室で会う患者さんたちは、ごく普通の人たちである。中島らもさんのエッセイに出てくる、明らかに市民社会の位相からかけ離れた人を見かけた経験はない。「うつ病パニック障害などで、悩んでおられるのかなぁ」と思う。明らかな、妄想や幻覚に支配されて、奇異な振舞いをする、統合失調症患者は、確実に減ったが、気分が落ち込み、以前のように活発になれない、破瓜型の統合失調症患者は依然として存在するのではないだろうか。DSMという診断基準と精神科医の勘によって、破瓜型の統合失調症と誤診されるとういう新たな問題が生じている。統合失調症の薬を、投与することは、非常にリスクを伴う。本来であれば、まったく、統合失調症に該当しないのに、精神科医の勝手な判断によって、薬物投与され、副作用に悩まされるといったケースが生じている。ひきこもりなどその犠牲者にされやすいことは、以前から指摘されてきたが、現状は変わっていないように思えてならない。ひきこもりの意欲の減退などといったものは、病気とは、明らかに違う。人生のある時期において、重たい壁にぶつかって、身動きできない状態にある。精神科医は、その人の生育歴および現在の心理状況など入念に聞こうとしない。関わるのが、煩わしいだけのことである。とりあえず、統合失調症の疑いがあるという治療方針を立てた方が、楽であるから、誤診が生じるのである。大学の神経精神医学教室で、研究されているのは、主に統合失調症の薬物投与が、脳にどのような作用をもたらすという生物医学的なテーマである。そういった研究も必要かもしれないが、「人のこころ」の痛みが分かる精神科医を育成する方が先決ではないだろうか。

 

「バリバラの見た目問題」はあまりにもやり過ぎ

 障害者情報番組「バリバラ」が見た目に障害のある当事者たちをゲストに迎え、肉声を聞く特集をした。顔にあざのある、氏家志穂さんや、タレントの副島淳さんらが自らの体験を語った。顔にあざがある氏家志穂さんは、酷い仕打ちを受けているにもかかわらず、淡々と明るく本音をさらけ出したのが印象的であった。見た目の常識をMJと勝手に名づけ、アップデートしようとする番組の趣旨自体、不愉快極まりない。見た目に障害のある人の苦悩は計り知れない。それを、このような切り口で言及していくのは、傲慢としか言いようがない。障害を個性などと呼ぶのは、いかがなものかと思う。見た目に障害があることによって、社会生活を送れない人が存在していることを、無視したものである。氏家志穂さんのように、周囲の温かい励ましと、本人の前向きな性格によって、自らの人生を受け止める人は、ほんのごくわずかである。それを一般化しようとする番組スタッフは、見た目問題に苦しんでいる人間を冒瀆するものである。見た目問題について忘れてならのは、一般的な健常者が無意識に彼らを差別しているということである。「自分は、あんな顔に生まれてこなくてよかった」「自分は、不細工だけれども、あそこまで、酷くない」とった優越感を無意識に持ってしまう。意識していなくても、そのような感情が芽生えてしまうしまうのが、人間の本質的な姿のように思えてならない。「顔ニモマケズ」水野敬也という本がベストセラーになったが、どこか通じる所がある。この「バリバラ」という番組は、障害者問題に風穴を開けたと、大絶賛する人たちがいるが、とんでもない誤認である。「従来の障害者福祉は、綺麗事ばかりで、偽善を感じるから、障害者の本音をさらけ出していこう」というのが、「バリバラ」という番組のコンセプトである。しかし、障害者を晒しものにしていることにまったく気づいていない。偽善を排したつもりが、新たな偽善を生み出しているように思えてならない。

栃木リンチ殺人事件、栃木県警の罪と罰

1999年に栃木県で発生した栃木リンチ殺人事件。元警視庁の巡査部長で、ジャーナリストの黒木昭雄さんの、著書「栃木リンチ殺人事件 警察はなぜ動かなかったのか」は、この事件の真相に迫った、労作である。黒木昭雄氏は、元警察官でありながら、一貫して、「警察批判」を続けてこられた方だが、残念なことに2010年に自殺されている。他殺説が流布されているが、月刊「創」の編集長である篠田博之氏は、「自殺説」を展開している。私も「自殺」ではないかと思う。黒木昭雄氏の著作を読んでいると行間から、正義感が滲みでてくる。そうした、潔癖な性格ゆえに激しい警察批判を続けたのではないだろうか。栃木リンチ殺人事件は、1999年に須藤正和さんが、少年らに壮絶なリンチを加えられた上に、殺害された。自分達の遊ぶ金欲しさに、須藤正和さんから金を巻き上げ、まるで、おもちゃのように扱った末に、殺害した。日産自動車栃木工場に就職してから、半年が過ぎる頃に事件は起きる。両親の元に、上司から、須藤正和さんが無断欠勤を続けているという電話があった。この時点で、少年らに須藤正和さんは拉致されていた。子供の身を心配した、両親は、不審に思い、石橋署を訪れるが、担当した警察官は、まともに取り上げようとしない。黒木昭雄氏の本の中では、「でも、今回は息子がカネを借りてるんでしょ。悪いのはあなたの息子で、借りたカネをホカの仲間に分け与えて、おもしろおかしく遊んでいるんじゃないの?警察は、ちゃんと事件になんないと動かないの」と記されている。この事件での警察の失態は、これだけでは済まされない。警察よりも、須藤正和さんの行方を知っていたのは、日産総務部であった。日産総務部には、警察ОBの就職先であり、警察と蜜月な関係で、日産社内での社員の不祥事を警察に依頼してもみ消すことが日常茶飯事に行われていた。須藤正和さんと、少年のひとりが、日産の社員であったことから、事件性になるのを恐れて先手を打ったわけである。そして、この事件で、何よりも許せないのは、主犯格の少年の父親が現職の栃木県警の警察官であったことだ。栃木県警が、須藤正和さんを見殺しにしたといっても良いだろう。2000年に宇都宮地方裁判所で、少年のうち2人は、無期懲役。1人は、懲役5年から10年の判決が下された。また、須藤正和さんの両親が、栃木県と加害者、その両親に1億5000万円を求めた民事裁判で、東京高等裁判所は、2007年に、「栃木県警の怠慢がなくても被害者を救出できた可能性はあると」判断し、賠償額を1100万円に減額した。須藤正和さんの家族は、上告したが、この東京高等裁判所の判決が確定した。どういった感覚の裁判官なのか、神経を疑う。「栃木県警の怠慢がなくても、救出できた」などと言い放ち、どこまで警察をかばおうとするのだろうか。当時、テレビで見た田舎の朴訥な感じの須藤正和さんの御両親が印象的である。警察のみならず裁判所が、殺された須藤正和さんと御両親にした仕打ちは、絶対許されない。