孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

良く当たる「占い師」「拝み屋さん」「霊能者」に「最悪の事」を言われて まるで「死刑宣告」を宣言されたようで 私にとっては絶望的である

統一教会を信仰する人たちが、高額の「壺」などのインチキ商品を買わされことを、ただの詐欺被害や「マインドコントロール」と見做し、法的救済制度を確立するだけで、根本的な問題が解決するのか、甚だ疑問である。安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也被告の兄は、体に障害を持って生れてきた。そのことが、原因で、山上徹也被告の母は、「統一教会」にのめり込んでいった。人が、宗教を信仰するのは、自分の力で抗うことのできない事に遭遇して、もう自力で立ち上がることが出来なくなるからである。「マインドコントロール」と簡単に片付けることのできない、問題を孕んでるように思えてならない。私の祖母は、「民間宗教」に凝っていた。その血を引いてか、私も「宗教的なこと」「スピリチュアル」なことに非常に関心がある。私の場合は、「人生が何故、かくも上手くいかないのか」「何故、自がだけが、不幸せなのか」という存在論的な苦しみから解放されたくて、何人かの「拝み屋さん」に自分の運勢を占って貰った。「拝み屋さん」とは、関西の言葉かもしれない。正確には、「霊能者」「霊媒師」の事を示す。彼らは、「霊感」があって、「目の前の相談者が、今後どのような人生を歩むか」を予知できる能力を備わっている。そういったことが関心がない人間は、「馬鹿な、そんな非科学的なことがあるか」「だとすれば、地震がいつ起きるか分かるはず」「宝くじの番号が、分かるはず」などの反論があるかもしれないが。そうした次元の事ではない。ただ、姓名判断や四柱推命などの「統計」に基づき、後は、「拝み屋さん」の霊感によって相談者の「人生の可能性」を言い当てるものである。四柱推命とは、生まれた生年月日と時間の組み合わせで、様々な「バリエーション」があり、人によって違い、かなり信憑性が高いものである。私は、全ての「拝み屋さん」に「最悪の事」だけを指摘されて、何一つ喜ばしいことを言われなかった。慰めに「アドバイス」みたいなことを発言したが、よくよく聞いてみると、「当たり前のこと」を言っただけ。もし、運命が大幅に改善するのであれば、「もっと具体的」なアドバイスをしたはずだ。おそらく、「救いようがない人生」が分かっていて、慰め程度の事で、お茶を濁したのではないだろうか。私は、その辺の霊能者の駆け引きみたいなものを空気感で理解できる質である。「自分の未来が暗澹たるものに覆われている」という絶望感は、私にとっては耐えがたいものである。「運命は決まっているが、努力次第で、改善される」とポジティブシンキングの人がいるが、私は、そうは成れない。やはり、「人生は、生まれた時から定まっている」と思えてならないのだ。どんなに努力をしても、度重なる不運によって、人は、押しつぶされて「虚無的」になっていく。「拝み屋さん」の一言一言が、「トラウマ」になって、自縄自縛で身動きできないでいるのが、私の今の状態である。

好き勝手なこと 薄汚いことをして「短命」の人生と 社会に適応出来ず「ゴミ屋敷」で孤独に死んでいく人生 どちらが幸せなのだろうか?

近年、「ゴミ屋敷」で死体で発見されて死んでいる人たちの存在が、社会的に問題になっている。様々な原因が考えられるが、私は、最大の原因は、「未婚社会」であると思う。「ゴミ屋敷」で、誰にも看取られず、死後、長らく経って、発見される人の割合は、女性よりも男性の方が圧倒的に多い。何故か。男性の方が、結婚できない時代であるからだ。生涯未婚率という数字を見ても、男性の未婚率が女性の未婚率よりもはるかに高い。生涯未婚率は、50歳の時点で、「一度も結婚していない人」と言う定義であるが。統計の裏をよくよく考えていくと、女性の場合に、結婚はしていなくても、「付き会っている男性」がいるケースがまま見受けられる。しかし、男性の方は、文字通り、50歳になっても、「結婚どころか女性と交際したことがない」という最悪のケースが想定され得る。それだけに、現代社会は、男性が生きづらいということである。今、ここに、好き勝手な事をして、薄汚い生き方をして、大病を患った人間がいると仮定する。また、その人間は、「男漁り」を散々して、自分は、「男運がない」と嘆き、子供たちが可哀想であると、主張しているとする。私からすれば、この人間に同情することは出来兼ねる。「見てくれの良い男」「イケメン」ばかりを襟好みしたのは、「自分」であるということを全く忘れて、相手の男に責任転嫁をしている。この人間と「ゴミ屋敷で孤独に死んでいく人間」とどちらが幸せなのだろうか。私は、好き勝手に打算的に生きてきたが、急に大病を患った前者の方が、絶対に幸せだと思う。前者の人間には、たとえ短命であっても、看取ってくれる「子供」というかけがえなのない存在がある。それに引き換えて、「ゴミ屋敷」で誰にも看取られずに孤独に死んでいく後者は、あまりにも過酷な人生を背負わされたのではないだろうか。最近の統計では、未婚の男性の平均寿命は、はるかに低い。この事は、「孤独がいかに、人間にとって不幸であり、心身に負の影響を与えるか」を物語っている。人生は、「短命」と「長命」で「幸せ」を決めることは出来ない。最も「悲劇」は、「孤独」なうえに、「短命」な人生だろう。好き勝手に、薄汚いことをした人間は、たとえ「大病」を患ても、克服して、また元気になることの方が割合的に多い。おそらく、「誰かのために、生きなければ」という想いが「生への執着」となって、「病気」に打ち克つのではないだろうか。一方「孤独な人」は、病気になっても、「誰も助けてくれない」という悲観的な想いにふさがれ、ますます病気が悪化する。人間の人生は、かくも不条理になものかと、私は思う。

 

神奈川県警の現職警察官が警察官襲撃依頼をした前代未聞の事件 「みかじめ料」などの利権を巡るトラブル 鬼畜の所業以外の何物でもない

2000年代初頭に、神奈川県県警は、相次いで不祥事が発覚した。その中で、あまりにも知られていない極めて悪質かつ許すまじき事件がある。1995年11月16日に、神奈川県警伊勢原署の地域課の巡査部長が、横浜市鶴見区の路上で3人の男にワゴン車に押し込められそうになって、拳銃で撃たれた。この警察官は、全治10日のケガを負った。その半月後に、主犯格の男と他の3人の男が殺人未遂で逮捕された。主犯格の男は、銃刀法違反と火薬取締法違反および傷害罪で起訴されて、実刑判決を受けて、2001年に出所した。主犯格の男は、「襲撃を依頼したのは、現職の神奈川県警の警察官である」と驚きの告白をする。その後の調べによって、襲撃の直接の依頼をしたのは、ある金融会社の社長であるが、背後で糸を引いていたのは、現職の神奈川県警県警の警察官であるという事実が判明する。襲撃された警察官は、捜査情報を教える代わりに、風俗店やゲーム喫茶、違法カジノから「みかじめ料」などを巻き上げていた。依頼をした警察官も、同僚で、同じようなことをしていた。しかし、神奈川県警の汚職グループの間で、トラブルが起こり、仲間割れの果てに、巡査部長襲撃事件に到った。主犯格の男が告白する決心をしたのは、逮捕されて、担当になった警察官に、依頼人の存在や県警の汚職の事を正直に話しをすると、県警側の態度が変わり、「裁判で真実を隠蔽することと、汚職に関わっていて、襲撃された巡査部長を辞職させる」ことを約束された。しかし、約束は果たされず、汚職に関わった警察官は、辞職せずに、閑職でありながら職に就いていた。約束を破られて、自分だけが不利益を被ったからである。この事件で驚いたのは、襲撃する警察官の自宅や通勤経路、勤務先交番の勤務ローテションから愛人の店、愛人の自宅までが書かれた資料をもとに、一か月間にわたって、尾行を続け、狙撃の機会を狙ったことだ。これほど、用意周到に準備がなされたのは、神奈川県警が組織的に関与していたことは明白であることを証明していると思う。この事件は、あまり知られていないが、警察官が、捜査情報を教える名目として、風俗業者と癒着することは、ある種の慣習になっている。特に、地方の田舎の警察では、暴力団とは蜜月で、不良警察官は、風俗業で「タダで遊んだり」ということが良くあることだ。毎日のように、警察官の不祥事が起きているのにも関わらず、メディアは全く報道しない。それどころか、警察の犬に成り下がって、「警察の提灯記事」しか書かない新聞記者しかいないのが実情である。「朝日新聞社」「毎日新聞社」その他リベラルを掲げるメディアが、日頃「人権」や「平和」と大文字の正義を唱えながら、警察組織にはへつらうのを見ていると、「本当の正義」とは何なのかと考えさせられる。

「モテ基準」の変化 大人の男より「チャラい」「ええかっこしい」の男が好まれるようになった その原因は何なのだろうか?

「モテ基準」の変化が、バブルの頃から始まって、現在に至っている。これは、常々私が、考えていることだ。バブル景気の前の、1970年代までは、男臭い男や、知性のある男が女にモテた。しかし、学園闘争が終焉して、若者たちが、消費文化にどっぷり浸かり始めると同時に、恋愛事情も大きく変わり始めた。田中康夫が、「何となく、クリスタル」という小説を書いたが、あの小説ほど、1980年代の雰囲気を見事に体現しているものはないと思う。団塊の世代は、革新的であるように見えるが、実際は保守的ではないだろうか。まず、「貞操観念」という言葉がある。こんな時代錯誤の言葉を口にすると笑われるが、「女性が結婚するまで、処女であるべき」といった観念が、団塊の世代ともう少し後の「しらけ世代」の女性にはあった。また、自分の妻のことを「うちの家内」と言うのは、団塊の世代くらいまでだろうか。いや、もう少し後の世代の男でも、自分の妻の事を「家内」と呼んでいることもある。しかしごくまれで、現代では、「うちの嫁」とか「うちの奥さん」が大半ではないだろうか。私は、「うちの家内」と呼んでいる男を見ると、うらやましく感じる。それだけに、深い情愛で結ばれている証だからだ。しかし、フェミニストたちは、「女は、男の所有物なのか?」と激怒するだろう。「家内」と言う言葉を使う男が減少したことは、「モテ基準」の変化や男性の女性化が関連しているように思えてならない。かつては、女をリードしていく、逞しい男、良い意味での精神的「マッチョ」な男が女に好まれた。しかし、バブル景気で世の中が浮かれ始めた頃から、女が、一緒に道を歩いても、恥ずかしくない「見映えの良い」「かわいい感じ」つまり中性的な顔の男が好まれるようになった。高倉健菅原文太、といった「東映やくざ映画的」な顔は、女から敬遠されるようになった。ますますその傾向が強くなるばかりで、最近は、「本当にくだらない男」がモテるようになった。昔の芸能界では、大女優は、ブサイクな男と敢えて結婚するのかと思えるほどに、信じられないカップルがあった。例を挙げれば枚挙に暇がない。しかし、最近の女優は、ただの演技力のない「イケメン俳優」を選ぶようになった。新聞の俳句の投稿か何かで、「芋焼酎」のような男が好きという趣旨の俳句を見かけた。「芋焼酎」のような男。意味としては、「温かく」「人間味のある」男の事だろう。「芋焼酎」のような男がモテない時代というのは薄っぺらいものだと思う。

 

人生経験があまりなくても 瞬間的に「相手の目」を見たら その人の「人間性」を悟ってしまう ある種の才能を持った人間もいると思う

私は、どうも人の好き嫌いが子供の頃から激しい性格である。3歳頃になるまでは、言葉を発することはなく、親も「知能」が遅れていると心配したぐらいであったが、3歳になると同時に急に話し始め、その後は、何の問題もなかった。反動として、急におしゃべりになった時期もあった。もし、現代であれば、「自閉症スペクトラム障害」などと、勝手に診断されていただろう。しかし、親の話によると、言葉は発しないが、物事に対する「理解力」があったために、「知能」の遅れはないと確信していたそうだ。私は、パズルが子供の頃から得意であったり、電車や車の玩具に異常に興味を示すタイプであった。将棋の藤井聡太と、私は、誕生日が、7月19日で同じである。向こうは、大天才で、名前を引き合いに出すのは、おこがましいが、誕生日が同じというのも何か、共通項のようなものがあると思う。私の子供の頃のエピソードとして、親から聞いて印象に残っているのは、来客があった時に「気に食わない人」に向かって、「お客さん、早く、帰ってください」と直接言ったそうだ。その来客の事を聞くと、どうも「上流階級」の家族の方々で、幼児と私にとって、「嘘くさいもの」を感じたのではないだろうか。私は、勝手にそのように解釈している。どうも、私は、「嘘くさい」ものが、今でも嫌いで、異常なまでに反応してしまう。例えば、人間関係で、皆から好かれている人に「偽善的な部分」を感じ、私だけが、拒否反応を起こしてしまう。善人と思われている人間の嫌な部分を必要以上に感じとってしまい、その人間を攻撃してしたくなる。あるいは、飲食店の女性店員の接客にも、過剰反応を示してしまう。感じの悪い女の店員であれば、不愉快で仕方ない。一方、感じの良い女の店員であれば、感心してしまう。私は、「相手の目」を瞬間的に見てしまう悪い癖がある。特に、初対面の相手であれば、「ファースト・インプレッション」として、相手が「私をどのように見たか」ということが、「相手の目」に如実に表れるからだ。相手が、自分を小馬鹿にした、あるいは親しみを持ったかは、一目で分かる。このような性格は、非常に生きづらいが、41歳になった今から急に改善する必要はなく、あるがままに生きていこうと思う。

「非モテ」を擁護する振りをしながら 根底では優越意識を持っている評論家もどき 彼らは、「フェミニスト」に従属し「リアルな現実」を批判しない

先日、朝日新聞の記事で、杉田俊介が、「非モテ」について論じている記事を読んで、不愉快で仕方がなかった。杉田俊介といえば、「非モテの品格」という本を書き、「恋愛弱者男性」について考察し、論陣を張っている。しかし、杉田俊介の論調は、現実の「恋愛弱者男性」の生態を描いているとはとても思えないのだ。先日の朝日新聞の記事では、非モテの男性が、「自分が女からモテない」という恨みから、犯罪を犯すという導入部分で記事が書かれていたのには非常に驚くと同時に唖然としてしまった。「フェミサイド」という言葉がある。「恋愛弱者男性」が、抵抗のできない女性をターゲットに襲うというような犯罪を示すものである。昨年、京王線で「幸せそうな女性を狙った」と犯人が犯行理由を語ったことで、フェミニストたちは、大騒ぎした。この事件の被告の場合は、特殊であって、そうした犯罪が偶然起きたから、「恋愛弱者男性」=「犯罪予備軍」という図式は、あまりにも短絡的で、人権侵害も甚だしい。実際は、「恋愛弱者男性」は、声を挙げることなく、「申し訳なさそうに」社会の片隅でひっそりと暮らしている。杉田俊介が「非モテの品格」という本で主張したことは、「男らしさ」から降りて「あるがまま」の自己を受け入れることが大切であるという、非常に耳心地が良いが、所詮きれいごとを並べ立てただけだ。結局のところ、杉田俊介が言いたいことは、「恋愛できない、結婚できない」という「固定観念」に呪縛されず、生きるべきというものである。換言すれば、「非モテ」は、「恋愛や結婚」を諦めろという暴論でしかない。杉田俊介のみならず、男性学という学問を研究している田中俊之始め、そうした論を展開する手合いがあまりにも多い。彼らの言説は、「フェミニズム」思想の支配下にある。「男性学」を研究するのであれば、何故、これほど「生きづらい男性」が増加してきたのか。その社会的背景についてまで、マクロの視点で考察しなければならないはずだ。しかし、彼らは、「男性の人権が蔑ろにされても許される社会」というリアルな現実を直視しない。「男性学」という学問を確立するには、「フェミニズム」と対峙する必要がある。それをぜずに、「フェミニスト的」なものが社会の権力になっている現状に恐れをなして、戯言をのたまう始末。地に足を付けて、男女の「非対称性」に言及する勇気ある者がいないのが残念でならない。

 

福島6人死傷事故 97歳の波汐國芳容疑者 著名な歌人で福島県文化功労章を受章 普段から車庫入れで苦労し車は傷だらけ 第2の「上級国民」か?

19日午後、4時45分頃福島市市道で、歩道を歩いていた調理員の川村ひとみさんが車にはねられ、頭を打って死亡した。福島県警福島北署は、20日に車を運転していた波汐國芳容疑者97歳を自動車運転処罰容疑で逮捕した。同署によると、波汐國芳容疑者は、川村ひとみさんをはねた後、信号待ちをしていた車3台の助手席側に、後方から次々と衝突して、車と街路樹の間に挟まって、停止した。この事故で他に20歳代から100歳代までの女性が軽傷を負った。波汐國芳容疑者は、地元紙「福島民友」の歌壇で選者を務めるほどの有名な歌人であることが判明した。大正14年の生まれで、短歌結社「潮音」に入社して、2007年に日本歌人クラブ賞受賞、2009年に福島県文化功労章を受章。そして、2017年には、歌集「警鐘」で第32回詩歌文化賞を受賞したという、華やかな経歴の持ち主である。近隣の住民の話によると、数か月前に、乗用車から軽自動車に乗り換えた。車庫入れに苦労して、車体は、傷だらけ。また、波汐國芳容疑者の家には、弟子が頻繁に出入りしていたという。池袋で事故を起こした飯塚幸三被告が、「上級国民」と騒がれた記憶が新しい。この事故も、同種のものであるが、あまり大々的に報道していないが、高齢ドライバーが、事故を起こすという意味では、現代的な課題を孕んでいる。質が悪いと思ったのは、波汐國芳は、東日本大震災で被害に遭われた方々の苦悩を歌に詠んでいることだ。歌人で、美しい言葉を紡ぎながら、自分の日常生活を管理できなかったのかと疑問でならない。高名な歌人で、弟子が波汐國芳宅に出入りしていたのであれば、誰か、「運転免許を返納した方が良い」などの忠告をしなかったのだろうか。車庫入れに苦労して、車体は傷だらけであったのだから、いつかは、今回のような事故を起こすことは予測できたはずである。波汐國芳は、運転免許証の更新の際には、認知機能検査では、問題が見られなかったという。そういう問題ではなく、97歳の高齢の老人が車を運転するのは危険で、弟子だけでなく、警察を始め、近隣の住民が、運転させないように促さなかったのが問題であると思う。42歳の女性が、暴走老人の車にひかれて死亡する。あまりにも理不尽で悲しいことだ。今後、認知検査に問題がなくとも、ある一定の年齢に達したら、免許を返納させる法制度の確立がいちはやく望まれる。