孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

加藤智大と造田博

2008年6月秋葉原で通行人を無差別に殺傷した加藤智大。この事件は、容疑者の男に同情する声が多く集まった。また、犯行動機が、様々な評論家たちによって解釈なされた。非正規雇用とういう不安定な身分を強調するとんでもない誤読もあった。また、加藤智大に彼女がいたから、自らの容姿へのコンプレックは、全く問題ないという結論を下す作家がいた。これは、大間違いである。何故彼が、執拗に掲示板で、不細工と書き込むのか。場を盛り上げるためのネタなどでは、決してない。自分の顔のことを不細工と言わしめる社会こそ問題なのではないのか。顔の良し悪しだけは、自分の力でどうすることもできない。たとえ整形してもさほど見違えるように良くなるとは思わない。現代のように見た目だけで、人を判断する風潮は、異常としか言いようがない。この事件ほど注目されなかたが、1999年の池袋通り魔殺人事件。被告の造田博は、犯行直前に高校時代の女子同級生に手紙を送っている。全く相手にされなかったことが、犯行の引き金になったのではないだろうか。非常に努力家で、地元の進学校に合格する。しかし、親の借金で、一家は離散する。その後、職を転々とし、新聞配達のの仕事をするようになる。あまりにも少年にとっては、過酷すぎる環境の変化である。もし、造田博を支えてくれる彼女が存在していたら、このような凶行におよばなかっただろう。造田の言葉を意味不明と片付けることは、絶対できない。弁護士は、造田のそういった犯行直前の状況を斟酌しただろうか。世間を騒がした犯罪だから死刑判決は避けられないから、いいかげんな弁護活動しかしていないように感じる。通り魔殺人は、古典的な犯罪である。それゆえ精神科医は、被告人が歩んできた人生も知らず、適当なことを自信ありげに語る。たとえ許すべからず犯罪をおかしても、ひとりの人間であることを忘れてはならない。