孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

命を賭した矢野伊吉と財田川事件

財田川事件は、戦後を代表する免田事件、松山事件、島田事件の1つである。1950年2月28日に、香川県三豊郡で、闇米ブローカーが、殺害され、金品を奪われた。犯人とされたのは、谷口繁義さんである。谷口繁義さんは、その当時不良少年で、前科もあったために、警察の見込み捜査の対象となった。警察は、谷口繁義さんを犯人にでっちあげるために、凄まじい拷問、脅迫を用いた取り調べをする。「手には手錠を二つ掛けられ手首から指の部分はは、血が通れなくなって紫色にふくれていた」「足にはロープを膝から下へ5回位ぐるぐると巻き付けられて正座させられた」といったもので、とても人間のすることではない。事件から19年後、矢野伊吉さんと谷口繁義死刑囚が、宿命的な出会いを果たす。その当時高松地裁丸亀支部の裁判長だった矢野伊吉さんは、偶然に裁判所の書類棚に眠っていた葉書を発見する。その葉書の内容は、谷口繁義さんが、獄中から無実を訴え続けているものであった。事件の真相を調べ始めた矢野伊吉さんは、谷口繁義さんの無罪を確信した。しかし、最高裁で、無罪の主張を棄却されてしまう。そこで矢野伊吉さん、裁判官の職を辞して、矢野伊吉さんを救済するためだけに、弁護士となる。この反骨精神と情熱は、矢野伊吉さんの経歴に由来する。エリートコースとは無縁で、給仕などしながら苦学の末に、法曹界に入った。そういった苦労人であったが故に、無実の谷口繁義さんを見捨てることが出来なかったのではないだろうか。財田川事件の争点を端的に挙げれば2つになる。1つ目は、国防色のズボンの血痕。2つ目は、被害者の遺体に見受けられるⅤ字型の刺創から、判明した刃物による二度突き。血痕については、警察の証拠捏造である。被害者の心臓を二度突き殺した、とういうのは、犯人しか知り得ない所謂、「秘密の暴露」とされた。しかし、冤罪の典型的なパターンで、嘘の自白をする際に、警察官が、情報として与えたものであることは、自明である。矢野伊吉さんは、脳卒中で倒れ、半身不随になってしまう。それにも関わらず、亡くなるまで谷口繁義さんの裁判のために闘い続ける。人権派と称される弁護士の中には、自らの打算に基づいて、弁護活動している不心得な人も存在する。矢野伊吉さんは、自らの生活を投げ捨ててまで、弁護活動を行った。声高々に正義を唱えながら、現実は何もしない、口舌の徒ばかりである。私たちは、無私の精神で生き抜いた、矢野伊吉さんを忘れてはならない。