孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「弱者男性論」に対する、文春オンラインの記事

今日の文春オンラインの記事を読んで怒りを感じた。この執筆者は、何も分かっていない。そもそも、弱者男性たちが、ネット上で、攻撃的な言説を主張しているわけではない。ネット上で、弱者男性の振りをして、他人を不愉快な思いにさせるような発言をしているのは、強者男性の中の不心得者ではないだろうか。彼らは、弱者男性をネタに内輪受けして、喜んでいるだけである。本当の弱者男性は、声も上げられず、孤独の底で、もがき続けているだけだ。この執筆者の論調は、まるで、「弱者男性」が、犯罪予備軍と決めつけるものでしかない。「弱者男性」の切実な声は、聞き届けられないのが現実である。彼らが、日常生活で、女からどのように、忌み嫌われてきたか。そういった具体的な体験談を聞いた上で、論じるべきではないのか。恋愛圏外にある男を、嘲笑する。こういった行為に、女のみならず、男も平気で加担するようになった。ルッキズムという言葉が象徴するように、外見至上主義の時代になってしまった。かつては、男が、化粧するなど考えられなかった。眉毛も手入れし、常に女からの視線を気にしなければならない。「男は、黙って札幌ビール」の時代は何処に行ってしまったのかと叫びたい心境だ。私たちの祖父の世代では、考えられないだろう。戦争に駆り出され、復員した後は、生きるために必死だっただろう。昭和一桁、あるいは大正末期に生まれた、男たちは、気骨があった。顔のことなど気にするなどおよそ、想像もつかないに違いない。団塊の世代から、恋愛結婚も主になり、文化に変化の兆しが、見え始めた。恋愛や結婚を論じる上で、世代論と統計は絶対に必須である。生涯未婚率の数字を厳密に、考察すれば、様々なことが分かってくる。そういった深い洞察なくして、勘や感で論じるべきではない。この執筆者は、次のように締めくくっている。「誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能なそうした周縁的、非正規的な男性たちが、もしそれでも幸福に正しく、誰かを恨んだり、攻撃したりしようとする衝動に打ち克って、生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう」と。ただの綺麗事であって、本当の解決策にはならない。「弱者男性」という言葉によって、より一層、負の烙印を押し、生きづらくさせていることに、この執筆者は、鈍感なのではないだろうか。