孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

犠牲わが息子・脳死の11日

久々に「犠牲 わが息子脳死の11日」柳田邦男を読む。心を病んでいた息子が、25歳で自殺を図り、脳死状態になる。亡くなるまでの日々と、生前の息子への思いを託した内容となっている。同じように、家族を自殺で亡くした人や、心の病気である子供を持つ親御さんたちに、好評がある。しかし、美談で塗固し、家族の実の姿を隠蔽してしまっているように思えてならない。柳田邦男氏は、言わずと知れた、日本を代表するノンフィクション作家である。名声もある氏が、家族のありのままの姿を書くとは、到底考えられない。亡くなった洋二郎さんは、真面目で、繊細な性格であったのだろう。本書では、日記が数多く収録されている。心の病気を抱えながら、懸命に生きようとしていたことが、伝わってくる。印象的な部分は、「どうして異端なのだろう。ぼくは車の車種を知らない。ファッションを知らない.。草木を知らない。色彩感覚がない。人々の目を知らない。一人暮らしを知らない。生きる喜びを知らない。友人を知らない。ぼくはやはり普通ではないようだ。根なし草の無国籍が厚木のホームにおりてから学校行きのバスターミナルまでかける。ぼくは見られるいたみに耐えて歯をむきながら、この完全なる分離された隔絶観、大衆のエネルギーをうけとめる以外になかった」。文学青年らしい表現で、自らの苦悩を率直に表現している。こういった、青年期特有の自意識は、誰もが持つ。ただ、それとどのようにして、折り合いをつけていくかが、難しい課題なのである。純粋であるがゆえに、深く内面を見つめすぎた結果、心に破綻が生じたのではないだろうか。現代も、洋二郎さんのように、自己の桎梏から逃れられずに、苦しんでいる者は、非常に多い。柳田邦男氏は、冷静に、洋二郎さんの思いを語る。ノンフィクション作家として、ひとりの青年の死について語ることは、許される。しかし、職業作家である氏が、自分の息子の死を語ることに違和感を感じてしまう。子供の心の病気は、親の教育方針に大きく影響される。特に、高学歴な家庭は、様々な問題を生じさせてしまう。意識しなくても、「こうあるべきだ」と堅苦しい価値観を子供に押し付けていることがある。柳田邦男氏は、父親としての責任を放棄し、美しい物語に塗り替えてしまった。その後、柳田邦男氏は、妻と離婚し、本書のレイアウトを担当した、伊勢英子さんと再婚された。この行為は、何を意味するのだろうか。