孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

性教育を自分達の思想の道具にする風潮

学校現場で、「性教育」が必要以上に推奨されている。思春期における基礎的な生殖機能。望まない妊娠を避けるための避妊や、相手を尊重し合うセックスなど。何故そんなことを、わざわざ学校で教える必要があるのか。過激なイラストを交えて、性教育をすることが、まるで時代の最先端であるがごとく風潮には、はなはだ疑問を感じてならない。フリーアナウンサー小島慶子氏は、次のように語っている、「性教育を始めるなら2歳から5歳が黄金期。なぜなら、その時代は、性別の意識が未分化で、ジェンダー規範のようなものに縛られたり、性的なもののタブー観に気づいていない。だから、恥ずかしがらず性について話せる関係を築くことができる」と。この発言そのものが、今どきのジェンダー平等を掲げる人たちの思考を体現している。男の子が、母親と性について語りあうこと自体、とてもついていけない発想だ。また、逆もしかり。危険なネット情報が氾濫して、巻き込まれない為にも、性教育の必要性を強調する人もいる。ネット情報に対する、リテラシーが身についていれば、子供は、必然的に、正しい行動を取るだろう。ネットに危険な情報が氾濫していることと、性教育は別問題である。小島慶子氏は、あれやこれやと社会問題について論じるが、ピント外れなものばかり。庶民感覚のようなもが、この人には欠落している。АⅮHⅮであると騒いでみたり、どれもが、自己演出の一貫としてなされている気がする。帰国子女で、アナウンサーとして華やかな世界を歩んできたので、世間知らずなのだろう。性教育LGBTトランスジェンダーに対する偏見を持たないための正しい知識を学ぶというのは、やはり今どきの思想に迎合するものでしかない。性教育を推奨する人たちの都合の良いプログラムが組みこまれていく懸念性がある。これは、道徳教育の科目化と全く同じ現象である。道徳教育を科目化する人たちは、ウルトラ保守である。一方、性教育を推奨する人は、リベラル派。何事においても、リベラルと保守が二項対立している。物事の本質は、そんな単純なものなのかと思えてならない。