孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「フェミサイド」と単純正義を振りかざす人権感覚欠如のフェミニストたち

小田急線で、乗客たちを切り付けた事件、分けも分からずに、「フェミサイド」と大合唱している人たちには、まったく困りものである。対馬悠介容疑者が、供述している内容だけで、「女性を狙った犯罪は許されない」と結論づけるのは、、論理の飛躍、あるいは、論理のすり換えに過ぎないように思えてならない。そもそも、対馬悠介被告の供述には、一貫性がなく、特殊な例で、この事件を普遍化するのは、短絡的である。女性に、コンプレックスを抱き、鬱屈した日常を送っている、恋愛弱者男性は、現代においては、珍しくない。フェミニストたちは、「非モテ」と社会から烙印を押されながらも、声を上げられず、社会の片隅に追いやられ生きている、恋愛弱者男性の、「絶望、悲しみ、怒り」を一度たりとも想像したことがあるだろうか。現代ほど、「男性である」というアイデンティティを確立しづらい時代はない。何故、男性が生きづらくなってきたか、その原因は、「男性の顔が商品化」されてしまったことにある。恋愛や結婚において、女性は、何やかんや綺麗ごとを並び立てながら、男性の顔を第一選択とする。いや、「顔が全て」といっても過言ではない。フェミニストたちは、自分たちの人権や権利を主張するばかりで、自らもそういった差別に加担していることに全く気付いていない。むしろ、差別に加担しているのではないだろうか。フェミニストほで、イケメンしか眼中になく、不細工な男性を汚物のように見ることが多いのではないだろうか。私は、フェミニストの鈍感さ大嫌いだ。「選択的夫婦別姓制度が違憲である」、「ジェンダーギャップ指数が低い」などと声高々に叫ぶことほど馬鹿げたことはない。もし、生活に困窮している夫婦、カップルは「選択的夫婦別姓制度が違憲」などと言っている余裕があるだろうか。生活に余裕がある証拠であり、庶民感覚から著しく逸脱したものである。また、女性にコンプレックス、あるいは、嫌悪感を持っている男性が、対馬悠介被告のような凶行に及ぶだろうか。おそらく、普通の人間は、そうした感情を押し殺して、日常を送っているのではないだろうか。「フェミサイド」と大合唱する人たちは、「非モテ男性が、まるで犯罪者予備軍であるか」の論調を展開している。これは、恋愛弱者男性の尊厳を踏みにじる以外の何物でもない。大文字の正義を唱えながら、自らの偏見に気づかない、フェミニストたちの、人権感覚を疑う。この事件について、ツイートした和歌山大学の準教授の発言は、次のようなもである、「これは、女性が弱いからとか、女性を差別しての犯行というよりも、女性に差別された経験からの逆恨み犯行ではないだろうか。低スペック論外な男として、扱われて続ければ、若い女性に、一般に殺意を抱くことも不思議ではない。誰でも というより皆殺ししたい程だったのでは」。この発言は、現代の恋愛資本主義ともいえる風潮をうまく言い表しているが、一部に不適切な表現があったために、大バッシングを受けている。「低スペック論外な男」を作り出すのは、ルッキズムに支配された女性であることを指摘している点は鋭い。しかし、対馬悠介被告を擁護しかねない印象があるために、この発言をした、準教授をつるし上げ、集団リンチを加えている。人の発言の揚げ足を取り、自分たちの正義を振りかざす、フェミニストの行いは、絶対許されるものではない。