孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「ガード下酔いどれ人生」 ひきこもりは、昔からあった ダメな人間でも生きる意味がある

1999年にフジテレビのドキュメンタリーで、「ガード下酔いどれ人生」という番組が放送された。50歳近い息子と80歳の母親の生活に密着取材したものであるが、やるせない思いにさせられる。50歳の息子は、無職で、アルコール依存症。いわば、ひきこもり。老いた母親は、この息子をきつく叱るのであるが、溺愛しているために、突き放すことができないでいる。息子は、子供の時に、いじめに遭い、対人恐怖症のような状態になっていて、ほとんど他者とコミュニケーションが取れない。行き場のない怒りや悲しみを持て余し、お酒に溺れていったのであろう。このドキュメンタリーが、制作された当時、ひきこもりが社会問題化され始めた。しかし、番組の制作意図は、そうした所にはなく、一組の悲しみを背負った家族のあり様を描きたかったのではないかと思う。YouTubeでの「ガード下酔いどれ人生」のコメントを調べると、心無い書き込みがある。そういう書き込みをする人が多いのが、悲しいかな現代の日本である。酒に溺れて、年老いた母親の年金で暮らしている50歳の中年男は、決して褒められた存在ではない。しかし、彼が、そのような状態になったのには、それなりの深い事情があるわけで、私たちが、彼を断罪することは絶対にできない。この番組の息子は、警備員として働き始めるが、その会社が倒産してしまう。再び、元の生活に戻ってしまう。母親が、足を骨折して、入院している間に、息子は、急死してしまう。残された老婆の悲しみに満ちた姿は、見る者を複雑な気持ちにさせる。この番組の息子は、昭和25年生まれで、私の父親と同じ年である。つまり、ひきこもりというのは、現代的な問題ではないということだ。社会に適応できない人は、ある一定程度の数存在していて、ひっそりと世間に隠れるようにして生きていたのではないだろうか。近年、ひきこもりの高齢化80・50問題が、いたずらに喧伝される。行政の支援は、高齢化したひきこもりを社会的弱者と見做し、福祉の対象にさせすれば、問題は解決という風潮がある。確かに、親が死んだ後の経済的な面は、不可避なことであるが、もっと当事者個々人が抱えている苦しみや悲しみを尊重するべきではないだろうか。「ガード下酔いどれ人生」は、ひきこもり当事者および、支援に携わる人が見なければならない、ドキュメンタリーである。