孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

90年代に新しい生き方を提示して、注目された「だめ連」 その思想は今の時代に再び必要とされる

かつて、「だめ連」というグループが、90年代末期に、一部のメディアや論壇で注目された。早稲田大学文学部の2部の学生であった、神長恒一さんと、ペペ長谷川さんが中心になって結成された。「働かない、けない」「恋愛しない、できない」「家族を持たない、持てない」といったことを「だめ」と否定的に捉えるのではなく、オルタナティブな生き方を模索しようした。彼らの活動は、一部の論壇人やメディアが絶賛し、本が出版されたり、テレビでも放送された。その当時、私は、関西に住む、高校3年生であったが、彼らの姿を見て、強烈な印象を受けた。現在、ひきこもりになって、暇なので、本を読む機会が多い。図書館で借りてきて、「だめ連」を読んでみた。その感想として、ダメ連の思想は、あまりにもラデイカルなもので、時代を先取りし過ぎていたたために、普通の人たちには受容されなかったのではないかということだ。「だめ連」の思想は、ひきこもり問題に参考になると直感した。「だめ連」が結成された当時は、ひきこもりが社会問題化していなかった。それなのに、彼らは、時代を予測するかのような思想を掲げている。「働かない、働けない」は、ひきこもり問題の最大の課題であるが、いまだ、斬新な見解がない。行政のひきこもり支援においても、就労は、ワンパターンのものである。居場所に通わせて、人間関係に慣れ、軽い単純作業でもさせておけば良いといった支援は、ひきこもり当事者を冒瀆する以外の何物でもない。「コミュニケーション」能力が著しく劣っているというのは、一方的な決めつけである。個々のひきこもりを見れば、普通の社会人より、コミュニケーション能力はもちろん、あらゆる面において、才能がある、ひきこもり当事者が存在することに気が付くだろう。「だめ連」の、働き方へのスタンスは、資本主義へのアンチテーゼであるが、ひきこもり時代の働き方を考えるうえで、非常に大きな示唆を与えてくれる。「だめ連」のメンバーは、現在も活動しているが、90年代末期の頃のような影響力も認知度もない。結成30年を迎えるようであるが、再び「だめ連」が社会的に注目を受けることを願うばかりである。