孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「バリバラ」24時間テレビを「感動ポルノ」と批判するが、自らの番組の欺瞞と傲慢に全く気付いていない

「バリバラ」というNHKの福祉番組がある。この番組は、障害者福祉に一石を投じたかのように思われているが、全くの見当違いである。日本テレビの「24時間テレビ」を「感動ポルノ」と批判し、同じ時間帯に、放送し、独自の企画をするなど、挑発的なことをしているが、思い上がりも甚だしい。「感動ポルノ」のことを、オーストラリア人のマテラ・ヤングさんは、講演で、次のように定義している。「障害者が困難なことに挑戦する画像を見せながら。こういったイメージは、世の中にあふれています。皆さんも、両手のない少女が、ペンを口にくわえて、絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。こういう画像はたくさんあります。私は、それを感動ものポルノと呼んでいます。ポルノという言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々をほかのグループの人々の利益のために、モノ扱いしているからです。障害者を非障害者の利益のために、消費の対象としているわけです」と。マテラ・ヤングさんの意図は大変理解できる。健常者の中には、障害者がハンディを乗り越えて、何かを達成する姿を見て、「障害者でもできるのに、健常者である自分なら、必ず出来る」と、自信を持ってしまったり。あるいは、「障害者の不幸」を見て、「自分よりまだ不幸な人たちがいる」と安心したり。はっきり言って、そのような醜悪な部分があるのが人間ではないだろうか。ただ純粋に、「障害者が、ハンディキャップを乗り越えて、何かを成し遂げる姿」に感動する人たちも存在することは、確かである。「バリバラ」が傲慢なのは、自分たちの「障害者観」が絶対であると疑うことなく、他者に押し付けていることだ。「バリバラ」の前身である「きらっと生きる」という番組の方が、常識的な番組であったと思う。最近の「バリバラ」は、社会でマイノリティと呼ばれている様々な人を取り上げている。「顔にあざがある人」「吃音の人」「アイヌの人」「同和地区に生まれた人」など。それぞれ、生きづらさの度合いが異なるのに、十把一絡げに見做すのはいかがなものかと感じてならない。「偽善」を排したつもりが、「新たな偽善」を生み出していることに「バリバラ」は気づくべきだ。