孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

セカイノオワリ 藤崎彩織 直木賞候補まで選ばれるが、言葉が軽い 深みのある重厚な文学が受け入れられない時代なのか?

セカイノオワリというグループがある。変わった名前であるが、由来は、リーダーが、ADHD閉鎖病棟への入院、医師になるために勉強した記憶が、薬の副作用で消えるなど辛い経験をして、「自分の世界が終わった」と思っていたが、残されていたのが今の仲間であったので、「セカイノオワリ」と付けたらしい。ちょっと、精神を病んでましたというのをアピールする所がイマドキで、私は、好きになれない。世の中には、もっと精神を病んでいる人は多いはずで、このバンドのリーダーの経験などは、取るに足らない程度だと思う。メンバーの藤崎彩織は、歌手の傍ら作家活動をして、2017年には直木賞候補まで選ばれた。今年8月に出版したエッセイ集「ねじねじ録」は、仕事、結婚出産、育児に悩む有様を描き、同世代の女性から支持された。この「ねじねじ」は、自分の悩みが、「くよくよ」ではなく、「ねじねじ」という発想に基づいている。私には、中尾彬の「ねじねじ」しか浮かばない。本人は、「悩むことにはかけては、エキスパートかと思うくらい、いろいろなことにいつも悩んでいます。何か引っかかていて、落ち着かない気分でいると、一つ一つ考えるんです。」と本人は語っている。「悩むことには、エキスパート」という発言そのものが思い上がり、独善的でしかない。直木賞候補に選ばれた作品もさして、凄い完成度とは言えない。もっと優れた作家が、世の中に存在しているが世間に注目されていないだけである。直木賞選考委員のセンスそのものが問われる気がしてならない。直木賞芥川賞に選ばれていない方が優秀な作家であるという噂がある。高橋源一郎村上春樹吉村昭といった作家たちは、いずれも芥川賞を取っていない。吉村昭氏などは、非常に深みのある作品を書く。壮絶な闘病生活や人生の挫折が、創作の原動力になって、読む人の心を打つのだと思う。それに比べて、「セカイノオワリ」の藤崎彩織の作品などは、足元にも及ばないだろう。軽いことが、良い時代では、必然的に文学の在り方もそうなるのだろう。