孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

小野田寛郎 終戦後29年ぶりに日本へ帰国 美化するには不自然な点が多い「慰安婦」への差別的なまなざし 晩年は「日本会議」に名を連ねていた

終戦から、29年後の昭和49年小野田寛郎は、日本に帰国した。この小野田寛郎さんを主人公にした映画「ONODAー万夜を越えて」という映画が昨年公開された。信じ難いのは、リベラルと言われる人たちが、この映画を大絶賛しているのである。小野田寛郎は、地元の和歌山県海南市ではいまだに崇拝されていると聞いたことがある。常識的に考えて、戦後29年間も「戦争が終わったことを知らなかった」ということはあり得ない。小野田寛郎の手記「わがルバンダ島の30年戦争」のゴーストライータ―である津田信は、自らの著書「幻想の英雄 小野田少尉との三か月」で小野田寛郎を痛烈に批判している。小野田寛郎が、島民を30人以上殺害したと証言したこと。そして、その中には、正当化できない殺人があったことを述べている。また、津田信氏の子息で作家の山田順氏が小野田寛郎と事を語っている。父親の津田信氏が、小野田寛郎を取材するために、共同生活をしていた。講談社の野間家の別邸がある静岡県伊東市に2人を住まわせていた。山田順氏は、「着変えを持ってきてほしい」と父親の津田信氏に言われて、わざわざ野間家の別邸に行った。そこで、小野田寛郎と初めて会った印象について、山田順氏は、「痩せていて、思ったより小柄で、気の小さいおじさんにしか見えなかった」と語っている。そして、一緒にお風呂の入り、「小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか」と聞くと、小野田寛郎は、「そうだ」とぽつりと言ったそうである。ルバング島で生き残った仲間と住民を襲い食料を奪いながら、生きて来た、戦争が終わったことが知っていても、報復を恐れて、ジャングルから出られなかった。最後に残った小塚一等兵が、フィリピン警察に殺されたので観念したのではないだろうか。小野田寛郎は、「慰安婦」の事についても、「正論」に自らの文章を寄稿しているが、あまりにも差別的なもので読むに耐えがたい。また、財団法人小野田自然塾理事長という肩書で「日本会議」に名を連ねている。こうした事実を持ってしても、小野田寛郎を美化するのは危険なことだと思う。