孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

何故かくも「無個性な人」ばかりの世の中になったのか? 人と違う生き方を主張する私は 「出る杭は打たれる」で非常に生きづらい

日本人は、同調圧力が非常に強いが、最近ますますその傾向が強くなってきた。発達障害や、挙句の果てに、HSPという不思議な名前の病気がブームになっている原因の一つとして、過剰なまでに「コミュニケーション能力」を求められる時代になったことがあると思う。発達障害は、元々自閉症に起源がある病気である。それににもかかわらず、知的障害を伴わなわず、少しばかり「コミュニケーション能力が他人より劣っているからという理由で、精神科を受診して、無理矢理に「発達障害」と診断されるケースが、この10年の間に増加した。過剰診断、誤診が、精神医療の現場で起こっていることは、非常に許せない。結婚して、子供までいる主婦が、40歳を過ぎて、「発達障害」と診断されることなんて、常識的に考えてあり得ない。「自分の生きづらさ」を「発達障害」という病気のせいにすることによって、自分が本来向き合わなければならない「人生の課題」から逃げることにもなり得る。「発達障害」という病気が、ブームになったために、本当に「救済するべき自閉症の人たち」の人権が蔑ろにされているように思えてならない。自閉症の人たちは、知的障害や精神障害など重複して困難を抱えている場合が多い。社会が、「発達障害」の支援ばかりに注目して、「自閉症の人たち」の支援が手薄のなっている。そもそも「コミュニケーション能力」とは何なのか再考する必要があるのではないだろうか。私自身は、非常に強烈な個性を持った人間であるため他者から誤解されやすい。それは、私自身の個性であって、恥じることなど何一つないと思って生きている。しかし、生きづらさを日々感じざるを得ない。それにしても最近思うのは、「無個性」な人が著しく増加したことだ。人間臭い味のある者と出会う機会がほとんどなくなった気がしてならない。またそういう深みがあって、個性の強い人間を社会が必要としなくなったように思えてならない。新自由主義の影響により、何事も「効率優先主義」という風潮で、組織の秩序を乱す人間は、造反者として、何らかのペナルティーを与えるような構造になった。個性を全面的に押し出してしまうのは、悲しいかな私の性であると諦めて、居直るしかないと思う今日この頃である。