孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「極道の妻たち」 岩下志麻の「関西弁」何故あんなにおかしいのか? しかし貫禄とリアリティーがあり本物の姐さん以上 

極道の妻たち」の再放送を見た。第1作と第2作の再放送を見たが、非常に面白い。「極道の妻たち」は、70年代末期に「東映やくざ映画」衰退して、ほとんど制作されなくなった時期に制作されただけあって、制作陣は、渾身の想いで制作しているのが伝わってくる。「東映やくざ映画」が流行らなくなったのは、80年代に入り、バブル景気の影響で、「泥臭さ」や「男臭さ」が若者たちから敬遠されたことにあるだろう。その代わりにテレビの「トレンディードラマ」が人気を博すようになった。恋愛ものが中心で、任侠やアクションものは、一部のマニアが鑑賞するだけになった。その最たるものが、Ⅴシネマである。「極道の妻たち」は、そんな時代背景を考慮して、主役を女性のスターで固めた。岩下志麻やかたせ梨乃といった女優たちに白羽の矢が立った。筋書きは、「東映やくざ映画」定番の抗争劇である。組長が死んで、組が内部分裂する。そうした中の生身の人間同士の醜悪な姿を描きながら、勧善懲悪に落とし込むという、謂わば「東映やくざ映画の定番」を軸にする。しかし、それだけでは、80年代という女の時代には物足りない。男たちの身勝手な面子に翻弄されながらも、激しく生き抜いていく極道の世界に生きる女たちの愛憎劇を全面的に押し出した所に、制作陣の意図があったと思う。シナリオライター高田宏治は、とにかく女を描くのが非常に上手である。実生活でも、女好きであり、お金を女のために散財して、借金を作るほどの御方である。実体験に基づいて書いているので、説得力がある。それ以上に、高田宏治のシナリオは、構成が非常にソリッドで巧みである。岩下志麻の関西弁が、関西人の誰もが聞けばおかしいことは分かる。関西を舞台にした作品の時は、映画やテレビでは方言指導の人が、役者に方言を指導する。「極道の妻」のエンドロールでも、東映京都撮影所の生え抜きの役者さんたちの名がクレジットされている。おそらく、岩下志麻クラスの大物であった場合、厳しく指導できなかったのではないだろうか。「イントネーション」が妙に違うので、見ていたら、笑ってしまう。しかし、岩下志麻が、第1作の主役を演じた時は、まだ45歳であった。恐ろしいまでの貫禄で、これまでにない「東映やくざ映画」の新たな原型を生み出した。男の役者が、やくざを演じる時は、必要以上に大袈裟な「リアクション」があり不自然な演技になってしまうことが多い。高倉健にしても、菅原文太にしても、実際にあんな端正な「やくざ」がいないと思い、しらけてしまう。しかし、岩下志麻の姐さんは、非常にリアリティーがあり説得力があるのだ。一番印象的だったのは、反目する相手方の組長の成田三樹夫が手打ちにしようと、岩下志麻のスカートに手を入れようとするシーン。岩下志麻は、元ホステスで、成田三樹夫とは旧知の間柄。しかし、岩下志麻は、手をはねのけ、成田三樹夫を歯牙にもかけない。「極道の妻」は、あらゆるシーンで揺れ動く微妙な女心を描いていると同時に名セリフのオンパレードである。高田宏治は、自分が作り出したキャラクターの言葉を叫びながら、シナリオを執筆するという。本物の作家にしても、シナリオライターにしても、物を書くと言うのはある種の業のようなものではないかと、私は思う。