孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

浪速の人情教師 作文教育で「いじめられている子」「しんどい子」「貧困家庭の子」に寄り添う 勝村謙司先生 「暴力を振い子供を罵倒した」智辯学園和歌山中学・高校の某「国語教師」は恥を知れと言いたい

かんさい熱視線」という番組を見て、感動した。この番組は、関西ローカルでしか放送されていないと思うが、昨日放送された回は、非常に質のあるもので、考えさせられた。勝村謙司先生という、堺市金岡東小学校の非常勤講師で、「作文教育」を通して、子供たちに向き合う方が紹介された。勝村謙司先生の作文教育の理念は、「子供たちが生活のありのままを文章で表現して、それをクラスで読み合う」とう「生活綴方」というものである。近年、「作文教育」を実践している先生は、ほとんどいないのが現状ではないだろうか。文部科学省は、新時代に対応してく人材を育成するために、「大学入試」も大きく変革しようとしている。そのためか、国語教育では、資料や統計・図を見て、端的に、まとめる「要約力」のような力が求められるようになった。はっきり言って、「社会のエリート」を育成するためだけの、文部科学省の指針はもっと非難されるべきである。「かんさい熱視線」の中で印象的だったのは、女の子が、つかみ合いの喧嘩をする。女の子の気持ちをじっくりと聴き、混乱した精神状態から抜け出すために、「自分の感情」を「作文」という形で言語化するために、勝村謙司先生と、担任の先生は、女の子に寄り添う。私は、この映像を見て、感動してしまった。これこそが、本当の教育であると。従来の「作文教育」と言えば、「上手に書こう」「模範解答的なものを書こう」というものである。しかし、勝村謙司先生は、小手先のテクニック的なものではなく、子供が悩み、苦しんでいることを上手下手関係なく、「文章化する」ことに重点を置く。「文章を書くことによって、自分を見つめ直していく」ということは、新しい学力観よりも、余程大切で、大人になっても役に立つ。私が、何故ここまで感動したか。私は、文章を書くことに、コンプレックスがあるからだ。私は、智辯学園和歌山中学・高校という学校に通っていた。30年近く前なので、今、これから書くような「暴力教師」はおそらくいないと思う。その当時は、体罰が横行していた。その国語の教師もその一人で、「俺は、ボクシングをやった。空手をやった」と吹聴して、気に食わない生徒を蹴ったり、殴ったりしていた。現代では、人権問題に発展するはずだ。しかし、その教師は、罰せられずに、のうのうとしていた。私は、その教師から目を付けられ、国語の時間に作文を読み上げられ、些細な言葉の誤用を誇張して、「文章になってるか、こんなもん」と罵倒された。それだけでなく、国語の授業では何かと言いがかりを付けられた。そのためか、自分は、文章を書くことが苦手であるという強固な「コンプレックス」を持つようになった。しかし、大人になって考えると、「文章が下手でも、相手に伝わる」ようなパッションがあれば良いのではないかと思い始めた。勝村謙司先生のような、素晴らしい人格者に出会っていれば、私の人生は大きく変わていたと後悔してならない。教師の一言は非常に大きい。私が智弁学園和歌山中学・高校出会ってしまった「国語教師」のような手合いが、どれだけ子供たちの可能性を押しつぶしていることか。それを考えると、慙愧の念に耐え得ない。