孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

周囲からは「危ない人」「サイコパス」と勘違いされてしまう私 どうしても「生真面目さ」や「誠実さ」が裏目に出てしまうように思えてならない

私は、社会生活不適応者である。しかし、第三者が、「私をどのように見ているか」が十分過ぎるほどに理解できる。どうも、私を「危ない人」「サイコパス」と勘違いする人が多いような気がしてならない。おそらく、私の律義さや古風な態度が、およそ今風の若者の価値観から大きく逸脱して見えるからだ。今の時代は、「軽いこと」が好まれる。話し方であっても、会社やフォーマルな空間以外で、丁寧な言葉遣いをしてしまうと浮いてしまう。私は、非常に「丁寧な言葉遣い」をしてしまう習慣がある。おそらく、そうしたことは、家庭環境の影響が大きいのだろう。私の生育史を振り返った時に、「こうあるべきだ」「こうするべきだ」という教条主義的な価値観に縛られて、柔軟性を失った堅苦しい人間に育ってしまった気がしてならない。もし、これが、官僚や超エリート会社で働いていたら、私は、損をするより、そうした態度が受け入れられ、上司や部下から支持されて、私は違和感を感じることなどないだろう。しかし、私は、人生の途中で、そうしたエリートコースに乗ることを自主的に放棄した。私の中学、高校の友達たちは、官僚や弁護士医者と言った超エリートになって活躍している。もはや私と住む世界の違う人間になってしまった。しかし、私は彼らを見ていると、非常に「くだらない人間」にしか思えないのだ。まず、彼らに共通するのは、想像力の欠如。自分が挫折したことがない者に、どうして「社会的弱者」の気持ちなど理解できるだろうか。弁護士になった者でも、「刑事弁護」という最大の人権問題に関わることは絶対ない。企業法務ばかりで、お金を儲けることばかり。従順に勉強して、超難関大学を卒業していても、人間としての魅力を全く感じさせないのだ。少なくとも、エリートコースを順調に歩いている同級生よりも、私の方が、「人を見る眼」であったり、「物事の本質」を射抜く能力では、はるかに優れているという自負はある。いつか、私の生き方のスタイルが、万人受けして、もう一度、何かを成し遂げ、人生の逆転劇を演じるという野望だけは、忘れずに生きているつもりだ。