孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「一つの不幸」なら我慢できるが 何重にも災厄に見舞われば 最終的に立ち直れなくなってしまう それを理解できない「想像力」の欠けた人があまりにも多い

「自己責任論」で、社会的弱者を非難する風潮が年々強くなってきている。特に顕著なのは、無差別殺人を犯す犯人たちを、「無敵の人」と呼んで、彼らを凶行に駆り立てた背景については、全く考えようとしない。無差別殺人を犯す人は、何も生まれついて「犯罪者」として生まれてきた訳ではないと思う。ロンブローゾという古代の学者が、生来の犯罪者説を提唱したが、これは、とんでもない非科学的なものであって、何の実証性もないことである。犯罪は、時代を写す鏡と言われているが、近年の傾向を見ていると、その背景に「孤独」があるように感じてならない。また、社会の最底辺で生きている人たちの苦しみを理解するどころか、「唾棄するべき存在」と見做す者があまりにも多い。自分の生活が、「ギリギリ」で他人の事などかまっていられないからなのか、それとも、「最底辺」に堕ちたのは、自分が悪いからだと言う「自己責任論」で切り捨ててしまうか。おそらく、その両方が微妙に混ざり合っているように思えてならない。私自身の人生について考えると、本当に何をやっても「ついていないなぁ」と痛感させられる。上手く人生が行きかけていた折に、何か不運に見舞われて挫折してしまう。こういったこと言えば、「人の責任にするな」という反論が返ってくる。しかし、そうしたことしか言えないのは、深く人生について考えていない、非常に「想像力の欠如」した人ではないだろうか。世の中には、運不運というものが、絶対あると、私は、確信している。私の周囲を見渡しても、何の努力せずに、順調に暮らしている者もいる。一方、物凄く才能があるのに、病気に見舞われて、不幸のどん底でもがいている者もいる。極論すれば、善人ほど、理不尽な思いをして、悪人ほど、のうのうと生きているのがこの世の中ではないだろうか。「自分が不幸なのは社会が悪い」といったことを口ばしると、非難轟々であるが、そうした考えも一理どころか、百里もあると思えてならないのだ。価値観が一様になって、異端な者を受けいれる土壌のようなものが、無くなってきたことが「格差社会」の一番の病理ではないだろうか。