孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「胡散臭い人間」「インチな人間」に憧れてしまう私 根が小心で融通が利かない もっと「図太く」「いい加減に」なりたかったと思う

私は、どうも「胡散臭い人間」「インチキな人間」に憧れてしまう傾向がある。私自身の性格が、非常に小心で、融通が利かなく生真面目で、柔軟性に欠くからだ。「三つ子の魂百まで」という諺があるように、性格は、3歳ぐらいに決定されてしまうのではないだろうか。精神医学の本などを読むと、母親との関係によって、その人間の人格が形づけられると、大体記述されている。全く、その通りであると思う。後は、遺伝と環境の相互作用によって、思春期の終わりぐらいには、もうその人間の人格は動かし難いものとなっているに違いない。私の場合は、「こうあるべきだ」「こうするべきだ」といた自らを縛ってしまう価値観に支配されて、生きてきた気がしてならない。自分の中の「道徳観」に極めて忠実である。しかし、世の中一般の「常識」といったものに対しては、反抗的であるという何とも「つむじ曲がり」な性格はおそらく一生治らないだろう。自分の中で決めつけた「善」と「悪」に過剰にこだわってしまう。そのためか、他罰的になってしまう面があり、周囲と軋轢を生んでしまう。分かりやすく言うと、「キレやす性格」ということだ。常に何かに怒っている。完璧主義者であり、自分の中の「善」に背くものは許せない。自分を擁護するようだが、ただ、その直感力と洞察力は、おおよそ間違っていないと思う。初対面で、一目見ただけで、大体「相手がどのような人間であるか」悟ってしまうことがあるからだ。「大人になる」ということは、「善」と「悪」を二項対立に置くことではない。「清濁併せ吞む」というように、人間の汚い面もきれいな面も受け入れて、周囲と協調していくことが、「世渡りのコツ」であると思う。私は、それが出来ずに、失敗ばかりしてきた。自覚はあるが、治そうとしない。「胡散臭い人間」「インチキな人間」は、人たらしである。「善」と「悪」を超えて、人間を魅了してしまう不思議な魅力を持った人物が多い。特に昔の政治家にこの種のタイプが多かった。現代は、「二世議員」ばかりでそうした器の人間が皆無になったが。「胡散臭い人間」「インチキな人間」になれない私は、ただ彼らの処世術を参考に生きていくしかないだろう。