孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

普段は「しょぼくれたおっさん」であっても 心の中に「抜き身の日本刀」を持っている 腹の据わった人間になりたいと思う

私も来年で、42歳になろうとして、もう本格的な中年であり、非常に焦っている。良く考えれば、20歳の成人式を迎えてから、2倍の歳月を過ごしたことになる。一体、何をやっていたのかと後悔の日々で、夜ほとんど眠れない。20歳前後の大学生を見ていると、前途洋々とした未来があってうらやましい気持ちと羨望の眼で彼らを見てしまっている。私は、比較的、歳の割には、若く見える。良い意味で取れば、童顔で、「おっさん臭く」見えないことになる。しかし、悪く取れば、年相応の貫禄がなく、何時まで経っても、「おこちゃま」ということになる。私の場合は、両者が混じりあっているだろう。最近思うようになったことは、肚のすわった人間をあまり見かけなくなったことだ。団塊の世代の人で尊敬するべき人が少なからずいる。おそらく、彼らは、全共闘世代であり、学生時代には、学生運動をした人が少なからずいるからだと思う。そういう人たちは、大学卒業と同時に「転向した」と世間で言われているが、その精神性には、常に「反骨精神」のようなものがバックボーンとしてあるように見受けられる。今の若者の中が、社会に対して何らかの思想性を表明すると、どうしても「ファッション性」のようなものに終始して真実味が感じられない気がしてならない。彼らの言葉は、地に足をついたものではない。リベラルであれ極右であれ、借り物の言葉をまるで自分の事のように発しているだけである。実体験に基づかないために、まるで説得力の欠くもので、シンパシーを全く感じない。「ルッキズム」といわれる時代にあっては、何もかもが、「見せかけ」だけの良さに価値観がある。人を判断する際も、「賢そうに話している」「知的に見える」。そうした表面的な部分でしか人間というものを捉えることしかできない。一見して「風貌が冴えない」ようなおじさんが、実は、人生の機微に通じ、「本物の人間」であることが大にしてある。また、人間の価値は、修羅場をどれだけ、くぐり抜けてきたかにあると、私は、思う。たとえ修羅場を体験していなくても、ある日突然に襲ってくるのが人生である。そうした時に逃げ出さずに対峙することができるか。日頃、格好の良い事を言って、皆から尊敬されている人間ほど、そういった場面に遭遇したら、逃げ出すものである。だから、私は、日頃「冴えない」と思われていても、心の中に「抜き身の日本刀」を持って、いざとなったら抜くぐらいの「覚悟」を持てる人間になりたいと思っている。