孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

濁世(汚い世の中)で折り合いをつけて生きることが本当に難しい 清濁併せ呑むことができれば大人物になれるが、私には程遠い

濁世という仏教用語が頭から離れない。確か、ラジオか何かで、五木寛之が「濁世」という言葉の意味を説明していたのだが。五木寛之は、仏教的なことを語るのが好きである。そうした関連の書籍も数多く執筆していて、それなりに「仏教」に関心があるのだろう。ただ、五木寛之が主張する仏教的なことは、どうも真実味がない。日本を代表する大作家であり、私たちと住む世界が違い、雲の上のような存在である。テレビやラジオで、きれいごとをのたまいながら、華やかな暮らしぶりとの不一致を考えると、どうも五木寛之が語る「仏教」は眉唾ものではないかと思えてならない。「濁世」という言葉は、汚い世の中を意味する。私の浅い人生体験でも、本当に今の世の中は、「濁世」という言葉がふさわしいと感じてならない。つまり、汚い輩が、得をして、真面目で純粋な人間が損をするということだ。数多くの例を挙げれば、枚挙に暇がない。汚い輩は、一見して善人面していることが多い。だから、世間の人は気づかず、その輩に対して尊敬のまなざしで見ているということが往々にしてあるだろう。逆に世間から、「人間のくず」と見做され、まともに相手にされない人たちが、実は心がきれいで純粋であったりすることもある。今の世の中を見ていると、本当の「正義」が何かを見る目が曇った「リベラル」を自認する知識人面した手合いがあまりにも多すぎる。この種の「リベラル派」は、朝日新聞始め、朝日新聞に投稿する「良識的市民の方々」である。「朝日新聞」についてはまた別の機会に論じたい。最近の「朝日新聞」は目に余り、じっくりと検証していきたいからだ。「濁世」であるから、押しつぶされて、世間の片隅に追いやられて物も言えないというのは、あまりにも納得ができないことである。「濁世」であるならば、自分も「汚い人間」になるという論理の飛躍をする人が中には少なからずいる。しかしそれは、短絡的思考で、人間としての芸がない。「濁世」であるならば、清濁併せ呑み、「世の中」はそんなものだと達観することが「生きづらい社会」を乗り越える処方箋ではないだろうか。この当たり前過ぎる、小学校6年生でも理解できることが、私には到底無理で、「ハードル」の高いことなのである。私は、どうも感情過多で、「清濁併せ吞む大人」には到底なれないようだ。