孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「ボクシング」でこの世を喩えるなら 数秒でK0できる「実力」を持ちながら リングに上がる機会を奪われた才能の持ち主もいるように思えてならない

今の社会を見ていると、それほど実力も才能もないような人間が小回りが利き、実力者にゴマをすって、幅を利かしているように思えてならない。一方、本当に才能も実力もある人間が、不遇をかこっているのが現実ではないだろうか。「ボクシング」で喩えれば、数秒でKOできるほどの実力があるながら、何らかの事情で「ボクシング」を断念せざるを得なかったり、「リング」に上がって試合に参加する機会さえ奪われているようなようなものである。こういう風潮が強くなってきたのは、人々が「本物の人間」を見極める洞察力や人間心理の機微が失われてきたからである。「まがい物の人間」「嘘くさい人間」が、他者を欺き、あたかも善人面しているということだ。私が嫌いなのは、「善人面した悪人」である。「善人面した悪人」を見極めるのは、非常に難しい。彼らは、一見して人当りも良く、誰からも好かれている。しかし、その裏には誰もが気付かない社会的弱者を唾棄するような傲慢さと不遜さを持っている。それに対して、「悪人面した善人」は、世間から人間のくずのような扱いを受けている。確かに、素行不良であったり反社会的な行動を取って、社会生活が破綻していて、決して「模範的な市民」とは言い難い。しかし、個々の人間をじっくり見てみると、本当は、心が純粋で憎めない人間であったりすることが多い。しかし、イマドキの若者は、上っ面だけでしか人間を判断しない。いや判断するほどの人生経験がないからだ。人生経験があれば、その人間が「本物の人間」であるかどうかぐらいすぐに判断できるものである。社会から「ダメ人間」と烙印を押された人間は、負の回路に陥ってしまう。真面目に生きることを放棄して、悪事を働いたりして、社会生活破綻者となっていく。「セルフネグレクト」という言葉が象徴するように、自分の人生に明るい展望を抱けなくなった時に、人は、「生きること」を放棄してしまうものである。私は、どうもそうした「悪人面した善人」にシンパシーを感じてならないのだ。どうやら、私自身が、「心情的アナーキズ」の持ち主であるからではないかと、昨今思う次第である。