孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「誰もが見ていない所」で正しい行いをする それが本当の「道徳的」な人間である 私はそういう者になりたい

「道徳」を科目化するなどは、本当に馬鹿馬鹿しいことである。右派が、美しい日本人などという形骸化された文言を声高々に主張することに対して嫌悪を感じてならない。ましてや「教育勅語」などを美化する人がいるのだから驚きを通り超して、笑いが止まらない。「道徳教育」が、そんな右派の思想のために使われることは目に見えている。そもそも「道徳」をわざわざ教育の科目にする必要性があるのだろうか。日常生活で自然に身に着くものであるし、また子供に親が教えるものである。しかし最近日本社会は、公共の場において、人としての最低限度のマナーすら遵守できない不逞の輩があまりにも増加した。これは、社会的地位や学歴があるなしにかかわらず、すべての階層の人間に通じることである。ネットのスラングで「DQN」なる用語がある。「DQN」は、2ちゃんねるで使用されていた。しかし、最近は、5ちゃんねるが不人気である。「便所の落書き」と呼ばれたように、読んでいて「吐き気を催す」ほどの文面ばかりであった。しかし、書き込む人間が、「偽善的なもの」に対して、怒りを感じている点は充分に伝わってきた。今は、「真実」を知りたい欲求よりも、ネットで「自己を顕示する」ことが主流になってきたように思えてならない。ネットスラングの「DQN」が増加したのは何故だろうか。新自由主義が加速して、誰もが生活に余裕を持てなくなり、自分が明日社会から脱落するのではないかという不安に絶えず苛まれているからではないだろうか。ギリギリの精神状態で働いている者は、「働いていない」ひきこもりを蔑視する。自分も、何時ひきこもりになるか分からない、あるいは「ひきこもり」のような心性を持っているが、無理をして働いているストレスの捌け口をひきこもりに向けるからのような気がしてならない。古き良き時代は、もっと他人に対して寛容であった。「知的障害のある人間」がいても、表向きは「差別的な言葉」を投げかけるが、共同体で「知的障害のある人間」を受容していた。「道徳」を科目化しても、実際の社会で起き得る「差別問題」にどのようにして向き合うかなど絶対教えないことは必然。「右派」の政治利用が目的だからである。日常生活で正しい行動を取ることなどは、本来親が教えるべきである。残念ながら今の日本に「道徳的」な人間が少なすぎる。私は、人が見ていない所でも正しいことをする表裏のない「道徳的」な人間になりたいと思う。