孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

幸せになれるのに敢えて不幸な人生を自ら選ぶ そんな人の事を本当の「知識人」だと思う 私もかくありたい

最近、世間で名を馳せている各分野の著名人を見ていると、相対的に、「サラリーマン化」しているように思えてならない。昔の著名人は、破滅型の人生を送った人が非常に多かった。まず、文学の世界では、古今東西、心を病んでいた作家ばかりである。精神分析の世界で、「病跡学」という研究がある。「病跡学」の文献を読むと、いかに功名を成し遂げた作家が、常人と違う、「心的構造」をしていたかが分かる。大半の作家が、何らかの精神疾患を患っていて、自らの苦悩と対峙するなかで、優れた作品を書き残している。「狂気」と「創造性」は密接不可分な関係であることは自明である。ただ「狂気」をいかにして「創造性」にまで昇華させていくかが、作家としての一番の苦悩ではないだろうか。作家だけでなく、映画や芸能の世界においても、最近は、その辺に居るような、若者が、芸能界で大きな顔をしている気がしてならない。確かに、外見は、私たちの周囲にはいないレベルである。しかし、「タレント性」というものが全くない。「タレント」は、才能という意味である。「才能がない者が、芸能人として大きな顔をして鼻持ちならないのだ。昔の俳優は、やはり生き方からして、破天荒で、魅力的であった。「会社員」や「公務員」では絶対務まらないから、「芸能界」で生きていくしかないような器の者が大半であった。また、「芸能界」そのもが、そういった社会のあぶれ者を受け入れる世界として機能していた。必然的に、そうした者たちが放つ「アウトロー的」な感性は、一般人を魅了して止まなかった。今の「芸能界」にそうした「アウロー的感性」をした者が果たしているだろうか。言論や論壇の世界においてもしかりである。最近の若手の論客たちは、非常にスマートで同世代の「意識高い系」の若者たちに迎合するようなタイプがほとんどである。また、若いのに早くから、大学の教員という肩書があったり、「アカデミズム」の世界では、非常に優等生なのだろう。しかし、彼らに、私はまったく魅力を感じない。ただ少しばかり頭が良いだけで、その人間性に迫力と説得力がないからだ。何故なら、「エリートコース」を順調に上ってきて、挫折というものを知らないからである。「挫折」を知らないものは、他者の心の痛みが分からないことが往々にしてある。本当の知識人とは、「幸せになれるのに敢えて、不幸な人生を選び取っている人」の事ではないだろうか。簡単に言うと、本当の天才は、どうしても周囲と軋轢が生じてしまう。何故ならば、「天才」は、枠に嵌った既成概念に対して反抗の意を示し、自ずと、破滅型の人生を送らざるを得ないからだ。私もかくありたいと思う。