孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「人を赦すということ」が出来ない私 もっとおおらかになれたら 幅の広い人間になって「人生」が拓けてくると思う

私は、非常に攻撃的な人間である。小さい頃は、従順でおとなしい子供であった。しかし、思春期の頃からか、激しい気質になり始めた。そして、相次ぐ私生活の不運によって、ますます、その性格に拍車がかかってきたように思えてならない。何も、全ての人間に対して攻撃的な訳ではない。何か、嘘くさい人間、卑怯な人間、裏表のある人間を見ていると、腹が立って仕方がないのだ。普通であれば、世の中には様々な人間がいるというように割り切って生きていくのが大人である。それが出来ないから、私は、「社会生活不適応者」なのである。成熟した大人になれなかったのだろう。いちいち、目くじら立てて怒っていたら、体がいくつあっても持たない。私自身の生育歴を振り返ると、やはり、そのような性格が形成される下地が充分にあった気がする。幼児期からこだわりが強く、完璧主義者であった。例えば、「ペン習字」で、自分が満足すると思う「きれいな字」が書けていないと感じると、紙を何回も破り捨てて、納得するまで書き続けた。妥協ができないのである。こうした行為を精神医学的に、「強迫性障害」と言うが、私の場合は少し違う気がする。何でもかんでも、病気にすれば、人間は、何らかの「病名」を付けることができる。だから、もっとその人の人格や家庭環境あるいは周囲との人間関係を重視して、そうした行動を取る原因を考えていくべきだと思う。今の私は、非常に視野狭窄になっている。偏った思想を持ち、対極にある思想を持った人を唾棄するべき存在と見做してしまう。思想で、人を見ることは非常に危険であることは分かっているが、やはり自らに内面から湧いてくる情念のようなものに屈し難い。情念が理性より先行してしまうのだろう。私は、この20年間心から笑った日がない。だからといって、暗い顔をした、根暗ではない。他人には、礼儀正しい人間に映っているだろう。それだけに、私の内面は、非常に屈折している。「性格」は、修正することができないが、「行動パターン」は、自己の努力で変えることが出来る。もっと、自分と違う思想を持った人間を受けいれられれば、私は、より飛躍して、人生が開けてくるだろうと思う。しかし、一朝一夕に実践できない。それほどに私の業は深いのだろう。