孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

無かった「青春」 終わった「青春」に 慟哭する私 50歳までには何かを成し遂げることを望むばかりの日々である

私は、今年で、42歳になる。自分が、20歳の頃は、もう少しましな40歳になって、それなりの生活を送っているだろうと思っていた。結婚をして家族もあり、それなりの社会的地位をあるという風に。ところがである。今の私は、「社会生活不適応者」で、無様な姿を晒して生きている。私のこの20年間は、いったいなんだったのだろうかと考えると、絶望的になり、やり切れない思いに駆られる。とにかく、私の人生は、何をやっても、ついていない。占い師や拝み屋が言い放った、「あんたは、不幸な人生を送る」と予言がまさに的中している。占い師や拝み屋の言うことに、私は日々翻弄されて生きている。普通の人は、占いや霊的なことに関心がないだろう。しかし、私は、人生は、生まれた時から、「ある程度決まっている。どんなに努力をしても、良い方向に転換しない」と思っている。私自身の人生を考えると、傍から見れば、誰もが「エリート」の人生を順調に歩むだろうという人生を途中まで歩んでいた気がする。しかし、転落してしまった。その原因は、いったい何だったのかと考えれば、考えるほど、深い泥沼に足を取られ、抜け出せなくなる状態になる。おそらく、「人が不幸になる原因」というものは、様々な要素が絡み合って、一つに限定できないものである。私自身は、自ら、「幸せ」を放棄してしまう傾向があるように思えてならない。体制に順応できない性格というか、人と歩調を合わせることができない、つむじ曲がりの性分で、他者と軋轢を生んでしまう。「理性」より「情念」が先行してしまうのだ。「理性」ではわかっていても、気に食わない感じれば、反抗してみたくなる。普通の人間なら、何も感じないようなことに対して、必要以上に怒りを感じて、暴走してしまう。おそらく、そのような性格は、中学、高校時代に形成されたように感じてならない。しかし、私は、「エリート」になっていても、反抗して、自らの地位を捨て去っていたと思う。いずれにしても、「普通の人」にはなれない私である。しかし、50歳までの8年間で、何かを成し遂げてみようと思って、くだらない日常を甘受しつつ、野望を抱きながら生きている今日この頃である。