孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「最近の意識高い系の若者」のファッションとしての思想性は中身が伴わない 「本当の正義感」などおよそ持ち合わせていない

NHKで、大学生街を特集した番組を見た。真面目な大学生ばかりであったが、どうも違和感を感じてならなかった。ある若者は、戦争や平和に関心を持って、様々な人たちとつながりを持ち、精力的に活動をしていた。こういう若者は、非常に多い。大学のゼミで、自分が専攻している学科の単位を取るだけではなく、自ら主体的に学ぼうとする。その姿勢は、大変評価できるが、どうも彼らがやっていることを無条件に評価できないのである。就活の際に、人と「差異化」できる何かを大学生活で得たという、「アピール」をするという下心を持った大学生も中にはいるのではないだろうか。仮に、そうした下心がなくとも、彼らの話を聞いていると、「パッション」のようなものが全く感じられない。イマドキの若者は、「暑苦しく何かを語る」ということを嫌う。しかし、人が何かを本気で取り組んでいたら、饒舌にならずとも、「熱量」のようなものが、全身から伝わってくると思う。そういった「熱量」のようなものも、彼らにはないように感じてならない。ある社会問題に関心を持っても、一過性のものに終始して、後は、就職して、楽しい生活をする。それが、イマドキであるならば、何と軽薄な人間たちなのかと、私は腹が立って仕方がない。かつて、団塊の世代が、学園紛争に明け暮れた後に、大企業に就職したことが批判された時期があった。また、「警察官に石を投げてた」などと、実際には非合法な運動にかかわっていないにもかかわらず、自分は、「学生運動の闘士であった」など吹聴する者もいた。団塊の世代特有の「ずるさ」は、自明のことである。しかし、ごくわずかであるが、就職せずに、思想に殉じ、非合法な活動を続ける猛者も存在した。大学受験の予備校の講師などをしながら、糊口をしのぐというパターンが定着していた。就職した若者を、「転向した裏切り者」と断罪できない面もあると、私は思う。何故なら、団塊の世代は、全体的に政治や社会問題に非常に関心が強く、リベラルな思考の持ち主が多いからである。根底には、「正義感」のようのものがあるからではないだろうか。それに比して、イマドキの若者は、「正義感」の欠片もなく、自分をどのように演出するかという「ファッション性」だけがあるのみだと私は思う。