孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

だめ連 ペペ長谷川さん亡くなる 働かない モテない 「ありきたりな社会の既成概念」に異議を申し立てた 「令和の時代」に再び注目されることを望むばかりだ

だめ連のペペ長谷川さんが亡くなった。だめ連は、早稲田大学の2部の神長恒一さんと、ペペ長谷川さんらが中心となって結成した。モテない、働かない、働けないなど、「普通であること」に対するオルタナティブな生き方を提示して、90年代末期に一部のメディアが取り上げて注目された。その当時、私は、関西の田舎の高校生で、NHKで「だメ連」の特集や、だめ連の本を読んで衝撃を受けたことを鮮明に覚えている。「だめ連」は、はっきり言って、「だめ人間」ではない。むしろ、頭の良い人たちが結集した。「だめ人間」であっても、社会で生きていける、あるいは、「だめ人間」だからこそ、ありきたりの社会に対して異議申し立てをするという新たな社会活動の在り方を提示したように、私は思えてならない。既成の社会運動や労働運動に限界が来していた90年代末期に、「だめ連」の活動は、非常に画期的なものであった。そのため、社会学者も、「だめ連」を大絶賛して、多くの若者の支持を得た。しかし、2000年代に突入してから、「だめ連」の名前をメディアで聞く事も無くなり、徐々に忘れ去られていった。何故、「だめ連」は、一過性のもので終わってしまったのだろうか。私が思うに、やはり2000年代のネットの隆盛が、「だめ連」的な「生身の人間との関わり」を重視する主義・主張を駆逐してしまったのではないだろうか。「ネットの仮想空間」で趣味趣向の合う者同士が、緩く連帯することで自己満足し、「だめ連」のように、リアルに人間同士が連帯することは、煩わしい事として、敬遠されたように思う。早稲田界隈で、今も「だめ連」の活動は続いていいるようだが。私は、「だめ連」が、2000年代にメディアから消えてなかったならば、「ひきこもり」や「格差社会」に対する処方箋のようなものを社会に与えることが出来たことは間違いないだろう。ゼロ年代の世代の論壇人として、東浩紀宇野常寛という人がいる。最近、彼らに往年の勢いがないが。東浩紀宇野常寛は、2000年代という時代について論じたが、ただの「オタク的考察」に終始してしまい、時代の普遍性を捉え損なった感が否めない。令和に入り、ますます生きづらい時代になったこそ、社会に対して、「アンチテーゼ」の生き方を突き付ける「だめ連」的な生き方こそ、新たな指針を与えてくれることは間違いないだろう。