孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「こころの氷を解かす」のは人間の愛でしかない しかし、人の縁に恵まれない者がある一定程度存在し 犯罪を犯したり自棄的になってしまう 救いようのない現実である

新聞の人生相談を読んでいたら、回答者が、「こころの氷」を解かすという表現を使って、上手く解決策を提示していた。その回答者は、僧侶であるだけに、喩え話が非常に巧みであると感心してしまった。人生相談やカウンセリングにおいて、必要なのは、この僧侶のように、具体的に「喩え話」を出して、相談者を勇気づけていくことだと思う。しかし、実際のカウンセラーや臨床心理士といった職種の者たちは、マニュアルに従うだけではないだろうか。そもそも、カウンセリングといった物自体、私はあまり信用していない。大学で臨床心理学を学んで、大学院を卒業したばかりで、人生経験の浅い者に、人の苦悩を傾聴して、適切なアドバイスが出来るはずがない。「こころの氷」という言葉が気になって仕方がない。近年、「セルフネグレクト」という言葉が使われ始めた。ゴミ屋敷に住んでいる住人であったり、ひきこもりであったり、無差別殺人を起こす犯罪者であったりと。彼らに共通するのは、「こころの氷」を解かすことが出来ずに、自暴自棄になって自らに人生を放棄することだ。誰もが、「こころの氷」を持っているが、家族や友人という他者との交流を通じて、次第「こころの氷」も解けていく。しかし、「セルフネグレクト」に陥る人間には、誰も助けてくれる第三者が存在しない。そのため、自己の殻に閉じ籠って、被害者意識を募らせていき、破滅してしまう。1999年に池袋で、通り魔殺人という世間を震撼させた事件の被告である造田博という人物がいる。造田博は、学業優秀であったが、親の借金で、進学を断念せざるを得なくなり、種々の職業を転々として、犯行時は、新聞配達員であった。造田博は、犯行当時、「被害妄想」のような支離滅裂な事を発言していたため、精神疾患に罹患していると判断された。果たして、精神障害を患っていた、オカシナ人間の凶行として、池袋通り魔事件を片付けることが出来るだろうか。私は、造田博が、高校生の時に好きだった女性に手紙を書いたという行為がこの事件の根底にあると思う。高校生の時に好きだった女性に、意味不明の手紙を送った。造田の一方的な妄想による行為を精神鑑定でなされている。しかし、造田浩の心中に「女性の愛」を求めて止まない深い想いがあったと、私は思えてならないのだ。造田博が、女性と恋愛をしていたら、このような凶行に及ばなかったに違いない。異性からの承認がなかったことが、造田博の犯行動機に何らかの影響を与えているのではないだろうか。造田博は、自分の人生が上手くいかなくなり、社会の最底辺を歩まざるを得なかった。造田博を取材した、青沼陽一郎は、造田博の人間性をことごとく否定している。しかし、造田博の本当の心中に肉薄したとは思えない。真面目で努力家だった造田博が、自暴自棄になったのは彼一人の責任として、果たして断罪できるだろうか。もし、造田博が、周囲に理解を示してくれる温かい人たち、そして恋人に出会えたらならば、凶行に及ばなかっただろう。やはり、「こころの氷を解かす」のは人間の愛であると、私は思う。