孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「武勇伝」を語りたがる男ほど 「修羅場」に遭遇すると逃げる 逆に日頃、馬鹿にされているような男が力を発揮することもある 私は、修羅場に強い人間になりたいと思う

口舌の徒があまりにも多いような気がしてならない。特に、芸能界で、喧嘩自慢をする者がいる。タイマンで、何百人の暴走族と喧嘩をしたとか、やくざと喧嘩したとか、その手の武勇伝の大半は、眉唾ものではないかと、私は思う。芸能人は、イメージが大切な仕事だから、こうした嘘をつくのも無理もない。しかし、実際に私たちの生きている現実の社会でも、やたら、自分を必要以上に演出して、自慢をする人間が多い。彼らは、非常に雄弁に自己を語りたがる。聞いていると、何故、これほどに、「自己肯定感」を持てるのかと、自分に自信がない私などは、逆に感心すると同時に、「自己肯定感」を持てる人間を心底羨ましいと、私はいつも思う。私などは、劣等感の塊で、「自己肯定感」を持てずに、コンプレックスに苛まれている。しかし、「自己肯定感」とは、いったい何なのかと再考するべきではないだろうか。自分が求めている「理想の基準」が高ければ、ハードルも高くその基準に到っすることができない。つまり、「自己肯定感」の強い人間は、レベルの低い基準を設けて、満足している訳であり、それほどの実力はないということになる。逆に、「自己肯定感」を持てない人間は、レベルの高い「理想の基準」を設けているために、その段階に到達することができないだけのことである。本当は、「自己肯定感」を持つ人間よりも「自己肯定感」を持てない人間の方が実力のうえではるかに上回っているのではないだろうか。先日、ラジオを聞いていたら、企業の人材育成をする「メンタルコーチ」のようなことをしている男が、次のようなことを語っていた、「自分は、最悪の事態を想定して生きているから、怖いものがない」と。この男は、私より2歳上だけでども、企業の人材コンサルタントみたいな仕事をして、それなりに名前を売っているのだろう。しかし、この男が体験した最悪の事態、あるいは頭の中で想定している「最悪の事態」など、大したことはないだろう。本当の「修羅場」を体験した者は、そう簡単に口に出して語れないものである。この男の言うことは、全て眉唾ものでしかない。笠原和夫というシナリオライターがいる。「仁義なき戦い」の脚本を書いたり、ビートたけしの映画を批判したことで有名な方である。笠原和夫氏は、やくざの取材をして一番印象に残ったのは、「普段、気が弱い奴と思われているような男あるいは、良家のお坊ちゃんほど、喧嘩の場で、狂犬のようになる」ということを語られている。私は、この言葉に真実味があると思う。ただ、狂犬のような喧嘩をしてしまう男は死んでしまい、組長になれない。やはり、要領良く、逃げる男が出世していくのは、やくざの世界と私たちカタギの世界も同じなのだろう。私は、「武勇伝」を語るより、「修羅場」で実力を発揮できる寡黙な男でありたいと思っている。