孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

結局は「数」が物を言う時代であるが 「肩書」も「社会的地位」もない私は「正論」を主張し続けていきたいと思う

私の考え方は、極めて「偏向している」と勘違いされやすい。しかし、根本的には、間違っていないと思う。現代は、「数がものをいう時代」である。リベラルと左翼の違いを、高野孟は、ラジオで語って悦に入っている。高野孟の説明によると、「左翼」は、他人に厳しいが、自分に甘い。一方、リベラルは、他人にも厳しく、自分にも厳しいというものだ。この高野孟の説明は、はっきり言って間違っていると思う。むしろ、逆ではないのかと言いたい。どうも、最近のリベラルを自認する人たちの思考が、あまりにも短絡的で、はっきり言って「烏合の衆」にしか私には見えない。ウクライナの戦争があれば、戦争や平和の意義を急にしたり顔で語りたがる人たち。交際情勢の事や、憲法9条の意味を良く勉強したうえで、自分言葉で何らかの社会的発信をするのであれば良いのだが、この人たちは、全く何も勉強していない。そのためか、「保守派」「極右」から、反論されると、筋道を立てた「論理的」な言葉で相手を論破できない。結局は、「保守派」「極右」から小馬鹿にされてしまう。私は、ある社会問題に感心を持って、「ブログ」を始めた。その社会問題に関しては、世間の人は、誰も関心がないと言っても過言ではない。私は、左翼系の雑誌に投稿して採用されることがある。しかし、その左翼系の雑誌を読んでいる人は、世間では圧倒的少数派ではないだろうか。今や、週刊文春が飛ぶ鳥を落とす勢いである。「文春砲」によって、政権を揺るがしてきたことは評価できるが、「週刊文春」が取り上げない社会問題もあるのも事実である。特に、「リベラル」を自認している人たちは、そういった社会問題には関心がない、いや想像だにできないのだと私は考えている。彼らは、「大文字の正義」を声高々に語りたがるが、本当に社会の最底あえいでいるいる人たちの姿を直視しようとしない。結局は、安全圏から、もっとらしい、嘘くさい正義をしたり顔で語るだけだ。私は、「肩書」も「社会的地位」もないが、自分の考えは間違っていないと確信している。これからも、その思想を貫徹し続けたいと思う。