孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「社会的弱者」どうしの中でも「ヒエラルキー」のようなものがある 誠に「人間社会」は醜いものだと思う

「社会的弱者」と一括りで、捉え切れない面があると感じることが頻繁にある。例えば、障害者の中でも、互いに差別しあう構造があるのは誰もが周知のことだと思う。乙武洋匡は、謂わば「勝ち組の障害者」と言って良いだろう。乙武洋匡が書いた「五体不満足」が、他の重度の障害者が書いていれば、あれほどベストセラーにはならなかっただろう。おそらく、出版社の編集者の戦略が功を奏したパターンである。乙武洋匡は、不倫やトンデモ発言をしてる。他の世間に出られない障害者には、乙武洋匡のような存在がいかに映っているか。かつて、「噂の真相」という雑誌があった。その中で1行情報という、記事にはしないが有名人の「スキャンダル」を羅列するコーナーであった。その中で私が一番印象に残っているのは、ノーベル賞作家の大江健三郎の息子の大江光が「いじめっ子」であるといった内容のものである。大江健三郎の息子大江光には、重度の障害があるが、音楽的に才能があり世間から認められている。大江光が、いじめっ子であるというのは私はものすごく「リアル」で「生々しい現実」であると感じた。障害者といえども、人間であり、強い者が弱い者をいじめるということは必然的に起こり得るからだ。私たちは、「障害者」=純粋無垢な人間と捉えがちである。こういった固定観念は、逆に障害者を差別しているのではないかという考えから生まれたのが、NHKで放送されている「バリバラ」である。私は、あの「バリバラ」を見ていると不愉快な気分にさせられる。障害者が、露悪的になってまるで「見せ物」のように晒されているようにしか見えないのである。制作プロデューサーは、「障害者も、私たち健常者と同じ醜い面を持っている」という「障害者観」を提示する意図があったのだろうが。しかし、「偽善を排したつもりが新たな偽善を生み出している」ということに全く無頓着であるように思えてならないのだ。これまで通り、障害者が苦難を乗り超えて何かを成し遂げた姿を報道して、それに私たちは感動しても別に良いのではないだろうか。「障害者」のみならず、「社会的弱者」どうしの中で互いの差別し合い、「ヒエラルキー」のようなものがあるのは悲しいかな人間の性ではないだろうか。