孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「虫けらやと思ってナメとったら その首飛ぶかもしれまへんでえ」by「極道の妻たち」で十朱幸代が啖呵を切るシーン それが今の私の心境だ

「極道の妻」という映画がある。私は、先入観があって、今まで観たことがなかった。しかし、何か月か前に再放送しているのを見て、非常に面白く、上手く撮っていると意外性を感じた。70年代の「男くさい任侠映画」が世間受けしなくなったので、東映次の一手を模索していた。その時に、これからは、女性の時代だから、家田荘子原作の小説を映画化するとヒットするのではないかと企画したのだろう。「極道の妻」という映画をここまで世に送り出した功労者は、脚本家の高田宏治であると、私は思う。高田宏治は、「女性」を描くのが非常に上手い。微妙に揺れ動く女ごころを緻密に描く。一般的に東映やくざ映画の脚本家は、「女を描くのが下手」である。大監督である深作欣二監督でさえ、男と女の情愛になると、手薄な演出となると評論家たちからの指摘があるほどである。何故、高田宏治は、女を描くのが上手いのか。町工場の子供として生まれ、母親が、男まさりで、父親の影が薄かった。その強烈な個性を持った母親の影響が大きいこと。そして、最大の原因は、高田宏治自身が、「女好き」で私生活においても、恋愛経験が豊富であったことだ。ただの女好きでは終わらず、高田宏治は、女に騙されて、多額の借金まで背負うという修羅場を経験している。そういう「リアルな体験」が、高田宏治のシナリオ創作の「原動力」となっているのだろう。高田宏治は、深夜に、自分が書いた「セリフ」を絶叫しながら、シナリオを独り書き続ける。物書きとうは、ある種「狂気」を持っていなければ優れた作品は生まれない。そういう意味で、狂気を持って、創作に臨んでいる作家は、現代では皆無である。ただ、小手先の技術で、文を羅列しているだけ。高田宏治は、「極道の妻」で数々の名台詞を創作した。私が一番好きなのは、第2シリーズのラストで、十朱幸代が、大暴力団の組長に「虫けらやと思ってナメとったら その首飛ぶかもしれまへんで」と啖呵を切るシーンである。「弱小の暴力団」が「大暴力団」に立ち向かっていくという筋書きは、よくあるパターンである。しかし、高田宏治が描いた「ドラマ」はそれらとは一線を画す。男の場合は、「ナルシシズム」に陥りがちである。「極道の妻」は、女が主人公なので、「ナルシシズム」を一切排して、己を捨てる覚悟が男よりも尚一層激しい「情念」になる。私は、社会的地位がない故に、ある社会問題を論じても、「お前ごときが、論じるな」と言われている状況にある。しかし、私は、専門家が体験していない、「リアルな体験」をした。この体験をした者は、日本の中でもほんのごくわずかな人たちである。そうした人たちは、声を挙げない階層の人たちである。私は、本やネットで知ったことを断片的に書いているのではないということだ。「リアルな体験」を契機にある社会問題に関心を持つようになったのだ。だから、私は、十分に論じる資格がある。私を馬鹿にする人たちに「虫けらやと思ってナメとったら その首飛ぶかもしれまへんでえ」と啖呵を切ってやりたい心境だ。