孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

大して物事に「こだわらない」のに発達障害やHSPという病名にしたがる昨今の風潮に違和感 本当に物事に「こだわる」ことを貫き通すことが出来る人こそが「天才」であると思う

些細な事にこだわる性格傾向があれば、何でもかんでも、「発達障害」あるいは最近では、「HSP」という病気にまでしたがる風潮に私は違和感を抱いてしまう。「発達障害」の過剰診断が問題になっているが、さらに「HSP」という摩訶不思議な病気まで世間に浸透し始めた。少しでも、自分が生きづらさを感じると、「HSP」と自称する人まで現れる始末。精神科医臨床心理士の中には、その人が向き合わなければならない「人生の課題」から目を背けさせて、敢えて、「あなたは、発達障害だから、HSPだから」と診断する者がいる。そうしたお墨付きを与えてしまうと、本人も精神科医臨床心理士の言う事を鵜呑みにしてしまう。これは、本当に厄介なことだと、私は思う。結婚して大きい子供を持った女が、「自分が今になって、発達障害と分った。自分の生きづらさの原因は、発達障害のせいであったのか」と納得するケースが非常に多い。そもそも、本当の「発達障害当事者」であったとすれば、結婚をして子育てを出来ただろうか。「発達障害」は、元々「自閉症」に起源がある病気である。「自閉症」は、知能も遅れて、対人関係も持つことができず、「特殊学級」で学び、通常の社会生活から切り離されて来た。「自閉症」とその家族が、どれだけ社会から差別されてきたのかは想像に難くないだろう。「発達障害ブーム」によって、「自閉症」の支援が手薄になる懸念が非常に大きい。また、「発達障害」特性として、特殊な才能を持っていて、「天才」という間違った認識が共有されている。物事に「こだわる」特性は、ある種の「天才」に近いというものだ。これは、科学的実証性もないものである。HSPにしても、些細の事を気にすることを「繊細さん」と呼んで、肯定的に捉える認識が広がっている。これにも困りものだ。「HSP」を自称する人の中には、繊細よりも「あつかましい」と思われる人が少なからずいる。都合の悪い時にだけ、「自分は、HSPだから」というのは卑怯のように思えてならない。本当に、物事に「こだわる」のは天才であって、社会生活に適応できなくても、我が道を突き進めば良いのではないかと、私は考えている。何でもかんでも「病気」にしたがる昨今の風潮に違和感を感じてならない。