孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「残念な人」には2種類ある 「自覚していない残念な人」と「わざと残念な振りをしている人」 才能があるが、運の悪い人は後者になって然るべき

「残念な人」には、2種類あると私は思えてならない。本当に、自分のふがいなさや鈍感さに全く気付いていない人間。もう一方は、意図的に「残念な人」を演じている人間。意図的に「残念な人」を演じなければならない人間というのは、何時の時代にも存在した。彼らは、才能があるが、社会との折り合いをつけることができず、周囲と軋轢を生み、孤立してしまう。その結果、自棄的になって、社会からドロップアウトしていく。現代社会は、なにもかも「ガチャ」で構成されていると言って過言ではなだろう。「親ガチャ」は当然であるが、めぐり合う人によって人生の運不運が大きく左右されるからだ。私自身の人生を考えると、身に染みて「すべてが、ガチャ」であると感じさせられる。私には弟がいる。弟は、本当に「運の良い男」である。運動は、できない。子供の頃の運動会のかけっこでは、常にビリ。私は、スタート音が鳴る前に、フライングしてしまうぐらい、「負けん気」が強く、「勝負好き」。弟は、勝ち負にこだわらず、スタート音が鳴った後に、走り始めるような鷹揚な性格。水泳も、5mしか泳げない。私は、5歳ぐらいから、スイミングスクールに通って直ぐに、泳げるようになった。運動が出来ない子供というのは、からかいの対象になりやすい時代であった。しかし、弟は、そうしたターゲットにもされず、人間関係に恵まれて、何一つ苦労をしていない。大学時代も、家庭教師という「定番のアルバイト」だけで。私は、様々なアルバイトをしたが、何ひとつ上手くいかなかった。弟の人生を見ていると協調性があるといった性格だけではない、「運不運」が人間の人生を大きく決定づけているように思えてならないのだ。私の運の悪さは、相当なものである。おそらく、現代社会は、私だけでなく、多くの人間が「運不運」によって泣くか、笑うかの人生を歩んでいるのではないだろうか。特に「才能がある人」ほど、自棄的になって、「生きるに価しない人生」と諦めて、わざと「残念な人」を演じている。本当に大変な時代になったと痛感させられる。