孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

自分の中にある抑えがたい「暴力的衝動」や「狂気」を何らかの形で表現する それこそが「表現活動」の源泉なのに 笑いや受けしか考えていない若者ばかりなのは残念

私には、抑えがたい「暴力的衝動」がある。だから、文章を書くと、攻撃的なものになってしまう。しかし、これは、私に文才がない証であることを証明している。「プロ」の作家というものは、そうした「暴力的衝動」や「狂気」といったものを、ダイレクトに表現せずに、巧みな言葉を使い、誰もが理解し得る「芸術作品」にまで高めていくものだ。ビートたけしこと北野武の一連の「暴力映画」が世界的に評価された。デビュー作の「その男凶暴につき」「ソナチネ」など、新な暴力映画として大絶賛された。しかし、私は、ビートたけしの「映画」は、ノリや感覚で作っているだけで、芸術作品と呼べるものとは到底思えない。特に、ビートたけしがこだわる「暴力」は、自分よりも弱い者に向かう「陰湿なもの」でしかない。「暴力」には、2種類ある。権力や体制に歯向かう暴力。そして、個人の間での暴力。「暴力」が時代の空気感に大きく影響を与えることは間違いないだろう。学園紛争が終焉する1970年代前半までは、反体制的な暴力が主であった。しかし、1980年代に入ると、「金属バット殺人事件」など家庭内暴力や中学校内での子供たちの「いじめ」による「暴力」に打って変わった。ビートたけしの「暴力」は、明らかに後者である。また、ビートたけし自身、「自分より強い者に刃向かう」男気のある人間ではない。フライデー襲撃事件では、たけし軍団を引き連れて、講談社に乗り込んだ。これほど、情けないものはない。横山やすしに「ひとりで行け、どあほ」と言われたことは有名過ぎる話であるが。また、ビートたけしは、四谷署の「取り調べ」において、警察官が逮捕を匂わすと、ビビりまくった。たけし軍団を引き連れ、いざ「警察署」では、弱気になる。それが、ビートたけしの素顔である。そして、たけし軍団では、鉄拳制裁を辞さない。言動不一致のトンデモナイ男でしかない。「暴力的衝動」や「狂気」を巧みに表現できる人は、普段は、寡黙で礼儀正しい人で、笑顔も絶やさない人であるべきだと思う。こういう人ほど「鬱屈した情念」を表現の場で遺憾なく発揮できる。最近の若者は、笑いや受けしか考えていなくて、「創作」というものに対する想いが邪なことが多い。やはり、何かを表現するということは、負の情念が必要不可欠ではないかと、私は思う。