孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

秋葉原無差別殺傷事件  加藤智大 たとえ「自虐ネタ」であっても 男がこれほどに「容姿」を気にしなければならない社会の病理ではないのかと言いたい!

秋葉原無差別殺傷事件」から、今日で15年が経過した。あの事件は、続発する他の「無差別殺人」と違い、時代の病理を孕んでいたように私は思えてならないのだ。「秋葉原無差別殺傷事件」を巡っては、評論家たちによって様々な解釈ごっこがなされた。加藤智大が、派遣社員であったことから、「非正規雇用」など格差社会の問題。あるいは、加藤智大の母親が教育熱心であり、地元の名門高校に進学したが挫折して、親子関係が悪化した家族の問題。何一つ、的を射たものはなかった。加藤智大は、過剰なまでに「自らの容姿」を気にしていた。自らを「不細工」と断言して、「容姿ネタ」を掲示板で書き続けた。実際に加藤智大に、交際した彼女がいたという真偽定かでない噂があるが、たとえそうであっても何故これほどに「自らの容姿」に固執しなければならなかったのか。私は、そこに現代社会の病理が孕んでいるとしか思えないのだ。加藤智大と私は、学年では、1つ上に該当する。「ポスト団塊ジュニア世代」で、非常に、特色が掴みにくい世代だ。この世代が持っている、虚無感と浮遊感が加藤智大にも私にもある。親の「団塊の世代」は、努力さえすれば、希望を持つことができた。あらゆる面において。特に「恋愛や結婚」は、団塊の世代は、「自由恋愛」が主とはいえ、社縁による「見合い結婚」に近い部分があった。そのため、男が現代のように恋愛や結婚にナーバスになる必要などなかった。加藤智大の顔について、作家の重松清氏は、「彼は、顔が悪いだろうか。」「顔が悪いので未来に希望を持てないというのは、顔を言い訳している」「顔は対人関係における入り口に過ぎないもので、加藤智大は、他者に対して信用や自信を持てなかった」という解釈をしている。流石、気鋭の作家であるだけに、他の評論家とは違う物の見方をしている。しかし、的を射ていない。やはり、加藤智大は、「現代の基準」では、「顔が悪い」のである。彼女がいても、「顔が悪い」ということを異常なまでに気にしなければならない「若者の空気感」あるいは「ルッキズム」こそ現代社会の「病理」だと私には思えてならないのだ。