非モテと自称して当事者活動をしている男たちがいる。短刀直入に言うと、彼らは非モテではない。彼らのやっていることは、モテないという息苦しさからどのように解放されて、楽に生きられるかを模索する作業である。この手法はメンズ・リブの考えに近く、フェミニズムに親和性どころか迎合したものである。男性学を研究している大学の教授たちの書いた本を読むと、その底の浅さに辟易してしまう。何故、現代社会において「恋愛弱者男性」が生きづらいのかというその根本的な問題に全く言及していないのだ。「男らしさ」「マッチョ」という価値観から自由になろというスローガンを掲げているに過ぎない。極論すれば、「恋愛弱者男性」というものはかつて存在しなかった。昔も「モテる美男子」はいただろう。そういう男は農村部でも都会でも「自分の妻以外の女」と不倫をして遊んでいた。本妻も大目に見ていたのである。「二号さん」という死語がある。お妾さんの事である。お妾さんと言っても、分からない人がいるかもしれない。もっと分り易く言うと愛人の事である。女遊びをする男の方が甲斐性があって、ある意味尊敬された。昔と今を比較して違うのは、「誰もが結婚」できたという事だ。「見合い結婚」が大半であったからというだけでは理由になっていない。女が男の顔についてとやかく注文しなかったからである。見合いの席で、初めて男の顔を見て、ショックを受けた。しかし、誠実そうで一種懸命働いてくれそうなので、承諾したというケースが非常に多い。それほどまでに女たちが男の顔に無関心であったのである。女が男の顔を商品化し始めたのは、バブルの頃からである。令和の時代は一層拍車がかかり異常な事態に陥っている。恋愛や結婚において女は男の顔しか眼中にない。顔の悪い男も恋愛できるが、自分より水準の低いルックスの女と限定される。逆に女の方は自分のルックスと関係なく様々な男と恋愛や結婚できる。端的に言うと、ブスのくせにイケメンと付き合っているケースが異常に多いのだ。本当の非モテは、「自分は一生恋愛や結婚できない」と思い、恋愛市場から撤退して、諦め切っている。自称非モテは本当に非モテに対して失礼な事をしている。彼らの打算や狡猾さが私には見えるのだ。