BS12で裸の大将放浪記が再放送されている。このドラマは昔は好きであったが、大人になった今は見ない。それよりもこの時間帯に「日本統一」というⅤシネマが放送されて、毎週楽しみしにしていた。しかし急遽日本統一の再放送が打ち切りになって、裸の大将放浪記になったので残念と思っていた。裸の大将放浪記は、山下清画伯をモデルにしたドラマである。山下清は知的障害があったが、絵を描く事にかけては天才であった。障害者を主人公にするドラマは何かと糾弾され、あまり映画やテレビドラマの制作者も手を出したがらない。そうした事情にも関わらず、映画全盛期の昭和30年代から裸の大将放浪記だけは制作された。障害があって、馬鹿にされる主人公が最後に山下清画伯と分り、人々に態度がころっと変わるという「ワンパターン」が視聴者に受け入れられたのである。やはり「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のように勧善懲悪で物語が終わり、カタルシスを人々に与えるからだ。水戸黄門の場合は、吹けば飛ぶような小さいお爺さんが天下の副将軍水戸光圀であると分かり、悪代官たちがひれ伏す。暴れん坊将軍では、徳田新之助という一介の浪人が8代将軍徳川吉宗であると分かった途端に「上様」と驚きの声を上げる。水戸黄門と違って、暴れん坊将軍の場合は上様がこんなところにいる訳がないと勝手に解釈して、立ち向かっていく。日本人はこうした分かりやすい勧善懲悪物語が好きである。「裸の大将放浪記」もその種のドラマでであるが、もう少し凝っている。脚本家が質の高いドラマを書こうとする意欲があるのだろう。また「ダ・カーポ」の野に咲く花のようにが人のこころを打つ名曲である。私は小学生の時にこの野に咲く花のようにが大変好きで、口ずさんでいた。「裸の大将放浪記」の芦屋雁之助のオーバーな演技は一歩間違えれば、障害者差別につながらない。しかし際どい線で、何とかドラマとして成り立っている。やはり馬鹿にしていた人間が、最期に天才画伯と分るというカタルシスが日本人好みなのだろう。