孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

茨城一家殺傷事件・メディアの報道に異議あり

茨城県境町の住宅で2019年9月、夫婦が殺害され、子供2人が重軽傷を負った事件で、茨城県警は、7日、無職の岡庭由征容疑者を消防法違反の罪などで起訴、殺人容疑で逮捕した。この事件をめぐって、許すべからず事が、起きている。先ずは、容疑者が、過去に犯した事件を担当した、元田村眞裁判官への誹謗中傷である。岡庭容疑者は、16歳の時に、14歳と8歳の少女を刃物で切りつけたとして、殺人未遂で逮捕され、起訴されている。この時の裁判を担当したのが、田村眞裁判官である。「広汎性発達障害の資質と両親の育成環境が、動機に直結した」として、刑事処分を退け、医療少年院に送致する判決を下した。ネット上で、田村眞裁判官が、鬼畜を野放しにしたという全く筋違いの論調を散見する。この判決は、妥当なものであり、田村眞裁判官には、何の責任もない。こういった人たちは、人権派の裁判官が気に食わないだけで、言いがかりをつけたいだけである。日本では、医療少年院でのプログラムが、諸外国に比べて遅れているのも再考するべきではないのか。さっそく、メディアは、岡庭容疑者が、第2の酒鬼薔薇聖斗であるかのように報道し始めた。こういった報道は、事件を面白可笑しく消費するためだけであり、絶対許せるものではない。戦後の少年犯罪を検証してみると、凶悪化していないことは、紛れもない事実である。専門家は、1960年前後にも、このような猟奇的な少年犯罪は、少なからずあったと報告している。体感治安を殊更悪化したように見せかける、印象操作以外の何物でもないだろう。この事件、警察の手際が、非常に悪いように思えてならない。2020年11月以降、別件で2回にわたり逮捕、起訴されている。殺人に関わる直接の証拠がなかったため、自宅倉庫から硫黄45㎏が、見つかっため、市火災予防条例違反で20日に逮捕している。このような長ったらしい犯罪名など聞いた事がない。別件逮捕を繰り返して、勾留延長させる、警察捜査こそ批判するべきではないのか。

 

 

 

竜二・映画に賭けた33歳の生涯

「竜二・映画に賭けた33歳の生涯」生江有二著を読む。昭和58年に「竜二」という映画が、公開されて、今もなお、カルト的な人気を博している。本書は、映画公開後、亡くなった金子正次の生き様に迫った秀逸なノンフィクションである。「竜二」は、日本映画を語る上で、欠かせない作品であると思う。東映やくざ映画が、衰退し、日本映画そのものが、凋落の一途をたどっていた時代。これほど、熱気を帯びた作品はないのではないだろうか。主役の金子正次はじめ、脇を固める役者も無名ばかりで、配給会社を探すのに苦労する。この作品に無理解であった映画会社のプロデューサーたちの、目は節穴であったことは、確かだろう。金子正次は、胃癌を患って、全身に転移していた。撮影現場では、露ともそんな素振りも見せず全力で演じていく。共演の永島暎子桜金造を殴りつけるシーンでは、手加減なしに本気で拳を当てたエピソードは、あまりにも有名だ。この映画製作が、難航したのは、初めにメガホンを取った吉田豊が、現場を上手く仕切れなかったことにある。スタッフ全員が、素人に近く、初めての映画づくりということも大きかった。しかし、吉田豊は、それなりに自分の構想をもっていた。しかし、それは、実際に、具体的に映像化するには容易なものではなかった。「竜二」のラストシーンは、妻や子供を捨てて、再び、やくざ世界に戻っていく。吉田豊は、竜二の頭上を、巨大な飛行機が、轟音をあげて、飛び去るカットを撮りたいと主張する。この吉田豊の発想も分からなくはない。結局スタッフを説得できずに、監督を降りることになる。しかし、この吉田豊は、松田優作の高校の同級生であり、金子正次を支え続けることになる。金子正次と松田優作との不思議な関係。かたや、無名の劇団の役者、もう一人は、名の知れた、大スター。しかし、互いに演技に対する思いに、相通じる面があったのだろう。生前、松田優作は、金子正次に次のように忠告している、「昔の素のままで、の匂いをそのまま引きずっている。役者やるのか何なのか、分からない。あのように純粋不良少年を装っているほうが、楽かも知れないが、三十超えてもそれでは、馬鹿ですよ」と。松田優作と金子正次の友情は、胸を熱くさせる。「竜二」という作品は、やくざ映画と分類されてしまう。東映やくざ映画のような、派手なアクションがなく、市民生活に適応できない、等身大のやくざが、描かれていると。それは、違うのではと言いたい。愛媛県の津和地から、役者になるため、東京に出てきたが、売れずに、辛酸をなめた、ひとりの男のロマンのようなものを、映画のワンカットに捧げたかったのではないだろうか。

犠牲わが息子・脳死の11日

久々に「犠牲 わが息子脳死の11日」柳田邦男を読む。心を病んでいた息子が、25歳で自殺を図り、脳死状態になる。亡くなるまでの日々と、生前の息子への思いを託した内容となっている。同じように、家族を自殺で亡くした人や、心の病気である子供を持つ親御さんたちに、好評がある。しかし、美談で塗固し、家族の実の姿を隠蔽してしまっているように思えてならない。柳田邦男氏は、言わずと知れた、日本を代表するノンフィクション作家である。名声もある氏が、家族のありのままの姿を書くとは、到底考えられない。亡くなった洋二郎さんは、真面目で、繊細な性格であったのだろう。本書では、日記が数多く収録されている。心の病気を抱えながら、懸命に生きようとしていたことが、伝わってくる。印象的な部分は、「どうして異端なのだろう。ぼくは車の車種を知らない。ファッションを知らない.。草木を知らない。色彩感覚がない。人々の目を知らない。一人暮らしを知らない。生きる喜びを知らない。友人を知らない。ぼくはやはり普通ではないようだ。根なし草の無国籍が厚木のホームにおりてから学校行きのバスターミナルまでかける。ぼくは見られるいたみに耐えて歯をむきながら、この完全なる分離された隔絶観、大衆のエネルギーをうけとめる以外になかった」。文学青年らしい表現で、自らの苦悩を率直に表現している。こういった、青年期特有の自意識は、誰もが持つ。ただ、それとどのようにして、折り合いをつけていくかが、難しい課題なのである。純粋であるがゆえに、深く内面を見つめすぎた結果、心に破綻が生じたのではないだろうか。現代も、洋二郎さんのように、自己の桎梏から逃れられずに、苦しんでいる者は、非常に多い。柳田邦男氏は、冷静に、洋二郎さんの思いを語る。ノンフィクション作家として、ひとりの青年の死について語ることは、許される。しかし、職業作家である氏が、自分の息子の死を語ることに違和感を感じてしまう。子供の心の病気は、親の教育方針に大きく影響される。特に、高学歴な家庭は、様々な問題を生じさせてしまう。意識しなくても、「こうあるべきだ」と堅苦しい価値観を子供に押し付けていることがある。柳田邦男氏は、父親としての責任を放棄し、美しい物語に塗り替えてしまった。その後、柳田邦男氏は、妻と離婚し、本書のレイアウトを担当した、伊勢英子さんと再婚された。この行為は、何を意味するのだろうか。

 

 

ドキュメント精神鑑定

刑事裁判において、被告人の罪責を問うことができるかを確かめる精神鑑定。よく耳にするが、謎のベールに包まれている。その謎を解きほぐしてくれるのは、「ドキュメント 精神鑑定」林幸司著、洋泉社新書yである。実際に数多くの事件の精神鑑定を引き受けてきた著者だけに、説得力がある。世間を震撼させた、動機不明のような事件が起きると、実際に、その被告人と対面していない、マスコミの御用精神科医が、憶測で発言してしまう。一般人は、解釈を与えてもらうことによって、不可解の事件を分かったつもりになってしまう。あるいは、「こころの闇」とういう陳腐な言葉によって、事件を片付けてしまう。著者は、そんな風潮に警鐘を鳴らす。「精神鑑定は、純粋素朴な精神医学の法律への応用に過ぎない。逆行催眠で幼児期のトラウマを探し出すというような心理サスペンスを地で行く派手な展開などいっさいない。あるのはただひたすら地味な問診と鑑別診断の繰り返し」と非常に謙虚な態度を取っている。生活史をじっくり聞きだし、犯行直前の精神状態、犯行に至る直接的な動機などを視野に入れながら、鑑定していく。本書では、著者が、担当した事件を、具体的に紹介している。一番印象に残ったのは、一流大学を卒業した男が、通り魔を引き起こした事件。仮名となっているが、1999年に発生した下関通り魔事件であることに間違いないだろう。被告人は、対人恐怖症を抱えて、仕事を転々とする。犯行直前には、他人の視線が気になって、外出するのが、怖く、近所のドアが閉まる音、エンジンをふかす音、など他愛もないことに執着し始める。そして、凶行に及んでしまう。争点となったのは、神経症圏の対人恐怖か、精神病圏の妄想かということである。被告人は、長年、対人恐怖を克服しようと、努力していた。森田療法を掲げた病院にも入院したことがあった。著者は、被告人との面談を重ね、「回避性・妄想性人格障害」と診断する。妥当な判断だと思う。興味深いのは、著者のみならず、大半の精神科医が、精神病圏の病名を下している点である。森田療法専門病院の医者は、対人恐怖および視線恐怖と神経症圏の域を超えないレベルと判断している。裁判員制度発達障害のある男が、姉を殺し、第1審で、求刑を上回る判決を下された。しかし、第2審では、原判決を破棄して、減刑した。裁判員が、発達障害の知識に無知であったために、このような事態を招いた。今後の刑事司法で、ますます「精神鑑定」の果たす役割が大きくなるだろう。

 

 

 

 

 

HSPのうさん臭さ

HSPとういう言葉が、非常にブームになっている。エレイン・n・アーロン博士が、提唱し、日本では、明橋大二氏が訳された。非常に感受性が強く敏感な気質を持っているという意味らしい。この明橋大二氏は、子育ての本について数多くの著書を書かれている。特に有名なのは、「なぜ生きる」という本である。版元は、1万年堂出版という出版社である。この会社は、高森顕徹氏が、主宰する親鸞会の本を数多く出版している。親鸞会については、様々な噂が流れている。最近では、能町みね子さんが、朝日新聞の「新しい世界へ羽ばたく人に贈りたい本」という企画に寄稿したところ、高森顕徹氏の本が上段に記載されていた。そのことに対して、能町みね子さんは、宗教の広告のだしにされたと苦言を呈した。親鸞会については良く知らない。しかし、毎日新聞などでも、大きく、親鸞会の本が、大きく広告されている。この、HSPは、はっきりとした精神医学上の名称ではない。DSM5という診断基準には、登録されていない。「繊細さんの本」など売れているが、似非科学ではないかと思う。誰もが生きづらい時代、何らかの、神経症的な面を持っていても当然ではないだろうか。ただその程度が、病的であるか否かが、問題である。日常生活に支障を来たすならば、精神科の治療が、必要となってくる。パニック障害などその最たるものである。正しい薬物治療と認知行動療法によって、治癒される。HSPが5人に1人とういうのは、常識的に考えておかしい。それ程、繊細で、他人に気配り出来る人が、今の日本社会に存在するとは、到底思えない。少し前の、新型うつ病発達障害ブームと全く同じ構造である。病名をつけてもらうことによって、自らのアイデンティティを確保することが可能になる。本当に解決しなければならない人生の課題を隠蔽してしまう。HSPが、子育てや恋愛と結びつけられるているが、自己啓発の域を超えないものばかりである。HSPとういう言葉を商売にしてしまう人間がいることに気づくべきではないだろうか。

 

 

 

成毛眞さん・書評サイトHОNZ

成毛眞さんは、書評サイト「HОNZ」を運営されている。賛否両論があるだろうが、今の時代に相応しいことをされていると思う。若者の活字離れが、甚だしい。また、ネットやスマホなど様々なツールが進歩して、読書するなど、時代遅れの行為と見做されががちである。何でも、ググれば、断片的な情報を入手できる。かつては、小難しい本を読むことが、青春の特権のようであった。今は、東京大学の学生でも、あまり本を読まなくなっている。頭の良い彼らは、絶対に無駄なことをしない。受験に必要なテクニック、すなわち、情報処理能力だけは、突出して長けている。小論文、あるいは、現代文の記術式設問も、卒なく答え、合格点に達してしまう。それは、ある意味で、才能があるのだろう。しかし、読書を軽視し、一流企業や、官僚になっても、何の面白みのない人間になってしまうのではないだろうか。教養主義時代とニューアカブームの時代のような、知的ファッションとしての読書は、問題外である。意味も分からず、本を持ち歩くことほど、恥ずかしいものはない。成毛眞さんは、次のように発言されている、「本を読んで知識が増えると、いままで話をしなかった人たちとも会話ができるようになって、話す人が増えるってことは、人生の選択肢が、増える。今でいう、ハッシュタグを自分に付けているようなものです」と。「ハッシュタグを自分に付ける」という表現は、言い得て妙である。成毛眞さんは、サイエンス系の本が好きで、10冊の本を同時並行に読まれておられる。「難解な本を熟読玩味するべき」という固定観念を払拭するべきである。自分が、読みたいと思う本を探すのが、難しくなってきている。朝日新聞毎日新聞、読売新聞、それぞれ、性格の異なった、書評が、週末に掲載される。これらの書評が、少しも面白くない。学者先生の政治的な力関係が、見え透いて、嫌気がさしてくる。Amazonのベストセラーなどは、本当にくだらない。やはり、本屋さんに足を運ぶことが、何よりも大切なことだと思う。本棚に手を当てて、自分が、読みたい本を探す、そうすると今まで関心のなかった本に遭遇することもある。そういったアナクロニズムを馬鹿にしてはいけないだろう。成毛眞さんの読書術は、AI時代を生き残る戦略でもある。

 

 

紀州のドンファン・マスコミは、警察の犬か?

須藤早貴容疑者が、逮捕されて一週間も経っていないのに、報道が、過熱しすぎている。これほど、単純で分かりやすい事件はない。それにも関わらず、あたかも、立件することが、難しい事件のように、歪曲する。何故ならば、警察が、十分な立証をを重ねて、捜査しているとういうことを印象づけるためだからだ。客観的に考えれば、事件発生から、3年も経過している。もし、警察が有能であれば、とっくに、逮捕し、事件を解決しているだろう。マスコミの、警察を過大評価する姿勢には、誰も疑問を感じないのだろうか。今回の事件で、どのメディア媒体もほぼ、同じ論調である。須藤早貴容疑者は、まだ、形式的には、犯人ではない。そのような段階で、容疑者のプライベートについて、あれこれ報道するのは、人権を無視したものである。特に、AⅤ女優であったことを殊更に強調するのは、いかがなものかと思う。日頃、そういった職業に従事している女性の人権について、擁護の姿勢を取っている。それが、この事件では、一転して、まるで、犯人であることを証明する、都合の良い、記号のように使われている。こうした報道は、明らかに矛盾したものである。最も許せない記事は、「警察庁が、和歌山に送り込んだ切り札官僚」というものである。この本部長は、東京大学法学部卒で、典型的なエリート警察官僚。就任時の言葉は、「悪い奴は、許せない」。おそらく、今度の事件で手柄を挙げて、出世コースを歩んでいくだろう。しかし、この「悪い奴は、許せない」という言葉、違和感を感じてしまう。警察官の犯罪は、目に余るものがある。新聞やテレビで、公表されるのは、氷山の一角である。大抵が、上層部によってもみ消されてしまう。身内の犯罪には、目をつぶり、犯罪を犯した人間だけを、悪い奴という思考回路は、典型的な警察一家の飯を食っている人間のものではないだろうか。また「和歌山県警vs須藤早貴容疑者の神経戦」は、すでに始まっているという記事も、おかしい。この須藤早貴容疑者は、政治家、財界人といった社会的地位のある人間ではない。そのような人間と大勝負しなければならないのは、警察の捜査力が、弱体化した証である。この事件で、ますます、メディアが、警察を礼賛して、国民は、洗脳されていくだろう。