孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「ぽっちゃり女子」の方が、「デブの男」より生きやすい社会

「ぽっちゃり女子」とういう言葉に、イマドキ女子のあざとさを感じてしまう。太っているとういう、ネガティブ要素を武器にする、恋愛戦略があるように思えてならない。実際に、「太っている」ということで、真剣に悩んでいる人間は少ないのではないだろうか。女性の摂食障害は、成熟への拒否が根底にあるとされているが、私は、違う気がする。ただ、身勝手な自意識の問題に過ぎない。水準の高い「ボディイメージ」を抱くことから生じてしまう。モデルや女優のような体型になりたい。男性に好まれる体型になりたい。モデルや女優になりたいのであれば、運動や食事制限を徹底するべきなのに、楽な選択肢を選ぶ。つまり、食事を抜くダイエットに固執してしまう。食事を抜くことが、どれほど、人間の健康に悪い影響を与えるか分からないはずはない。「ぽっちゃり女子」が、生きづらさを感じていると、勝手に決めつけて、その苦しみから解放されるには、「あるがままに生きなさい」という啓蒙的な漫画があるが、何と馬鹿げたものであることか。現実に「デブ専」という言葉があるように、「太った女子」が好きな男性が多いのも事実。一方、太った体型の男性が置かれている状況はどのようなものか。「ぽっちゃり女子」よりも厳しい状況に置かれて、差別されているように思えてならない。モテない、キモオタのステレオタイプ像として、大量の汗をかいた、太った男が描かれる。「ぽっちゃり女子」が生き残る選択肢は数多くあるのに、「デブの男」は非常に生きづらい。ここに男女の非対称性を感じざるを得ない。「デブの男」は、開き直ることが許されない。それに対して、「ぽっちゃり女子」は、女性からも男性からも同情を得ることが出来る。「デブの男」の体型を気にしないで、性格を重視する女性は、残念ながら現代においては、ほぼ皆無ではないだろうか。ただ、力士は例外である。力士は、非常にモテる。何と男性が、生きづらい世の中になったものかと、改めて感じさせられる。

 

 

「袴田事件」国家は、袴田巌さんをこのまま見殺しにするのか?

袴田事件において、30日、東京高検は、専門家の意見を踏まえた意見書を提出した。この意見書なるものは、弁護団が、警察によって、捏造されたとういう主張に対する、言いがかりとしか思えない代物だ。2020年12月22日に最高裁は、袴田事件の再審を認めなかった東京高等裁判所の決定を取り消し、審理を東京高裁に差し戻した。その日一日だけ、新聞は、大々的に取り上げたが、その後の動向を一切報道していない。袴田事件は、昭和41年6月30日に静岡県清水市で、みそ会社の専務一家が殺害された事件である。今年で、55年の歳月が過ぎようとする、冤罪事件である。袴田事件については、評論家、法曹関係者、一部の市民運動家らによって、検証されつくしていて、完全なる無罪と断言しても良いだろう。袴田事件に関する本は、数多く出版されていて、小学生高学年の読解力があれば、犯人は、袴田巌さんではないことが分かる。ボクサーくずれという偏見で、袴田巌さんに目をつけて、自白を強要し、証拠を捏造したことは、明らかだ。元プロボクサーというタフな肉体と精神力を持っていたはずなのに、嘘の自白をしてしまった。おそらく、取り調べ室で私たちが想像を絶する、激しい拷問を伴った取り調べがなされたのだろう。2007年には、第一審で判決に関わった、熊本典道氏が、合議性で、他の裁判官を説得できずに、死刑判決を書いてしまったと公表する。警察官調書44書を破棄し、検察官調書1書のみを採用した、判決は、熊本典道氏の苦肉の策であったにもかかわらず、その後の裁判官たちは、真実を見抜けなかった。袴田事件を語る上で避けらないのは、姉の袴田秀子さんの存在だ。事件当時から弟を支え続けてきて、88歳という御高齢になられる。袴田巌さんも、85歳になる。姉の袴田秀子さんは、底抜けに明るい。死刑囚の姉であると、差別された、つらい経験など、微塵も感じさせない。それだけに、この2人を見ていると、冤罪というものが、どれほど、理不尽で過酷な生を強いるものか、怒りを禁じ得ない。今回の検察のやり口は、非常に汚い。いたずらに、裁判を延ばし、袴田巌さんの死を待っているようにしか思えない。裁判所も、誤った判決を下してしまったことは、認めるわけにはいかないだろう。「選択的夫婦別姓は、違憲である」という裁判を提起する人たちは、袴田巌さん、秀子さんが、警察、検察から人権を蹂躙されたことを、考えるべきだと思う。夫婦の姓など、馬鹿馬鹿しことで、袴田さんらの裁判に対して、真剣に怒るべきことではないのか。

山口組取材50年 やくざに刺されても、書き続けた溝口敦さんの作家魂

山口組を中心に、暴力団を取材し続けてきた作家の溝口敦さんが、「喰うか喰われるか 私の山口組体験」講談社、を上梓し、ベストセラーになっている。これまで、数多くのやくざ関連の本を書かれてこられたが、この本はその集大成的な意味合いを持ち、貴重な書である。これまで、危険な目に遭遇してきた。1990年には、山組組の5代目襲名のルポを出版した際に、山口組幹部から圧力をかけられる。しかし、断固として拒否したために、約2カ月後、襲撃を受ける。傷口の幅は、5㎝。深さは、10㎝。この襲撃の時には、溝口敦さんは、「男を追いかけ、間合いを詰めてタックルすれば、倒せると思った」と述壊されている。次に、2006年には、子供さんが、山口組の男2人らに、刃物で刺され重傷を負う。これほど、恐ろしい思いをしても、飄々と語ることができるのは、覚悟を決めた、作家魂のなせる業である。日本人は、昔から、仁侠の徒に憧れる風潮があり、「やくざ映画」が大衆に支持されてきた。「やくざ映画」は、衰退したが、実話系の週刊誌で、常に、暴力団組織の情報が記事になっている。「アサヒ芸能」「週刊大衆」「週刊実話」などその最たるものである。山口組が、分裂し、神戸山口組山口組本家、絆會の3つの組に分かれた。警察は、山口組の抗争が激化するように、誇張しているが、事実は違うと思う。やくざと言えども、お金が、物を言う社会である。強力な資金源を保持している、本家山口組を実質的に支配している、弘道会の力には、どの組織を及ばないだろう。実話系のライターは、そうした勢力図と、やくざを持ち上げる記事しか書かない。必然と、やくざと交流を持ち、自分もやくざの一員になったと勘違いしている人が多い。溝口敦さんが、評価されるべきなのは、常にやくざと距離を置いて、取材してきたこと。そして、一般市民とかけ離れた社会の中で生きている、やくざのなかに、人間の普遍性を見出そうとしてきたこと。こうした、ヒューマンインタレストを持った作家が、少なくなってきた。やくざに関心がない人も、溝口敦さんの「喰うか喰われるか 私の山口組体験」は、一読の価値があるに違いないだろう。

 

丸岡いずみに同情の余地なし 顔で男を選んだ女の結末

映画コメンテーターの有村昆とフリーアナウンサー丸岡いずみが、協議離婚した。有村昆の不倫が原因であることは言うまでもない。丸岡いずみは、コメントしたが、美辞麗句を並び立て、悲劇のヒロインを演じているように思えてならない。うつ病を体験したなどと、世間の同情を買おうとするのは、身勝手過ぎる。ネット上で、丸岡いずみを擁護する声が、大半なのがあまりにも残念だ。有村昆は、イケメンとは思わないが、所謂、「チャラ男」である。そのような男を選ぶ、丸岡いずみに、男を見る目がなかったと、手厳しく批判する声がないのが、イマドキの男女の恋愛感覚である。最近の芸能界のカップルを見ていると、何も考えずに、相手の顔だけで、結婚に踏み切っているパターンがあまりにも多い。芸能界のみならず、一般人もその傾向が強い。かつての大物女優さんは、絶対、顔だけで男を選ばなかった。映画監督、デイレクターと言った業種の人間と結婚するケースが多かった。それも、取り立てて、男前というより、むしろ醜男を敢えて選んでいて、余程深い愛情によって結ばれているのかと、考えさせられることが多かった。世代論で物事を単純化したくないが、ある世代から、恋愛や結婚において、「男の顔」が最優先事項になってしまった。顔が良い男を所有する感覚だけが先行し、そこには、深いエロス的関係が欠落している。彼女たちがしているのは、小学生の恋愛ごっこの域を超えない。本当の大人の男女の関係とは言い難い。バブル世代と重なる、新人類世代あたりから、その傾向が強くなり、現代にまで至っているように思えてならない。団塊の世代が、一番得をしたのではないだろうか。大学紛争では青春を謳歌し、就職してからは、バブルの恩恵を受けている。団塊の世代の男たちの中には、風貌が冴えないのに、美人の奥さんと結婚している人があまりにも多い。ある程度のランクの大学を卒業し、相手の女性を思いやる性格の持ち主であれば、モテたのではないだろうか。そもそも、団塊の世代の男が、自分の顔にコンプレックスを持つことは、ほとんどない。例外として、幻冬舎の社長である見城徹氏は、自分の外見に異常なまでに、コンプレックスを持っていて、それをバネにして、仕事に情熱を傾けたらしい。残念ながら、イマドキは、そうした逆転劇は望むことはできない。社会から、あるいは、自己意識から「非モテ」という烙印を押されてしまうと、自らの男性性を確立できず、暗い迷路を彷徨うだけである。

 

 

和歌山県警の警察官逮捕 何が、「悪いやつは許せない」のか?

紀州ドンファン」の事件の捜査で上京していたとみられる、和歌山県警の巡査部長の男が今年4月に、羽田空港近くで、通行人の女性にけがをさせた疑いで、警視庁に逮捕されていたことが判明した。傷害の疑いで、逮捕されたのは、和歌山県警捜査一課の巡査部長、讃岐真生容疑者。今年4月、羽田空港近くの天神橋駅前で、通行人の女性ともみ合いになり、1週間のけがをさせた。女性が通報しようとしたところ、女性の携帯電話を奪い取り、投げ捨てた。典型的な警察官の犯罪の一形態で、今さら驚くべきことではない。腕力のない女に暴力を振るって、1週間のけがを負わせる、一般常識では考えられないことをするのが、警察官といっても過言ではない。「弱気を助け強気を挫く」のが、本来の警察官のあるべき姿である。しかし、残念ながら、「強気を助け弱気を挫く」つまり「弱い者いじめ」をするのが、実像である。この事件、逮捕された警察官、個人の問題で済まされない。警察組織の隠蔽体質とメディアの報道のあり方が問われる問題だと思う。「紀州ドンファン事件」は、世間的に注目を浴びた事件である。須藤早貴容疑者が逮捕されたのは、4月29日。メディアの論調は、状況証拠を積み上げて、起訴した和歌山県警を評価するものばかりであった。よく考えれば、野崎幸助さんが死んで、3年近く経過しているのに、とても、優秀な捜査とは言い難い。地元の新聞社を中心に、各週刊誌は、和歌山県警の動向を常に追ってたのに、何故今頃になって、巡査部長の暴行が発覚したのか。知らないはずはない、もし知らないとすれば、すぐさま、新聞記者を辞めるべきだ。まさに、記者クラブ制度の病理が露呈したように思えてならない。新聞社の警察担当記者は、もはや、警察の御用聞きに成り下がったといってもよいだろう。警察にとって都合の悪い事は、一切記事にしない。ただ、警察を持ち上げる、提灯記事を書くだけ。大手新聞社の和歌山支局の新人記者が、機動隊に一日体験入隊したことがあった。そればかりではない、地元のラジオ局など、県警のコーナーを設けて、警察が出演する番組があまりにも多い。さすが、二階俊博幹事長のお膝元だけのことはある。この新聞社、普段は、平和や人権などと、大言壮語しているのに、警察へのごますりが、甚だしい。本来、新聞記者は、いざとなれば警察と対峙するという覚悟がなければいけない。昨年、和歌山県警の本部長に、親家和仁氏が就任した。その時の記者会見で、「悪いやつは許せない」と豪語した。親家和仁氏本部長は、東京大学法学部卒の、いわば、キャリア組である。キャリアは、2,3年で転勤してく、超エリートだ。この「悪いやつは許せない」は、身内の和歌山県警を実質的に牛耳っている、ノンキャリアの不良警察官に向かって言うべきだ。雑魚を捕まえるより、まず、身内の素行不良な警察官を一掃するべきなのだが、そうはいかないのが警察一家。警察24時などという、死者まで出ている番組を垂れ流し、警察官に拍手喝采を送る人ばかりの時代では、警察権力が肥大し、日本が誤った方向に向かう懸念があるように思えてならない。

取り調べ中に暴行を加えられ死亡か?奈良県警が真相を闇に葬った事件

2010年2月6日に入院患者に、必要のない手術を行い、死亡させたとして、業務上過失致死の容疑で塚本康彦医師が逮捕された。塚本康彦氏は、その日から奈良県警桜井警察署の留置場で取り調べを受ける。2月25日に死亡し、遺体を見た家族は、足にどす黒い内出血が広がり、写真で見た、小林多喜二の遺体のようで、衝撃を受け、病死ではないと確信して、2013年に奈良県を相手に約9700万円の損害賠償を求める民事裁判を提起する。しかし、奈良地裁阪高裁も、棄却する。家族は、岩手医科大学法医学講座の出羽厚二教授に助けを求める。出羽厚二教授は、時津風部屋で、力士が暴行され、死亡した事件の被害者の遺体を解剖し、愛知県警の不正を追及された、優秀な法医学者である。病死ではないことが分かり、2016年出羽厚二教授は、「勾留中の男性が死亡したのは、取り調べ時の暴行による、急性腎不全である。」として、警察官2人を特別公務員暴行陵虐致死容疑で、刑事告発する。残念なことに、奈良地検は、不起訴。検察審査会も、不起訴相当という決定を下す。信じられない事件であるが、取り調べ中に、被疑者が、謎の死を遂げる事件が後を絶たない。取り調べ室という、ブラックボックスで、何が行われているか、外部からは窺い知ることはできない。犯罪を犯した人間だから、多少の暴力を伴った取り調べも許されるという、警察の捜査に歯止めが利かないのではないだろうか。犯罪者も、ひとりの人間であって、警察官が、寄ってたかって殴り殺しにしても、罪に問われないとしたら、あまりにも絶望的である。この事件の出羽厚二氏の勇気ある行動は、もっと社会的に評価されるべきだと思う。死亡の原因が、警察官らの暴行とわかっても、見て見ぬ振りをするのが大抵の人間である。何故ならば、警察組織が恐ろしいからだ。しかし、出羽厚二氏は、不正に目をつむることなく、警察官2人を刑事告訴した。これほど、正義のを貫く人は、今どき稀有な存在ではないだろうか。この事件のような悲劇が起こらないためにも、全ての事件において、取り調べの可視化が必要である。

北川景子の態度に激怒した、浜村淳は、最後の正統派芸人。

浜村淳とういう芸人がいる。関西では、有名である。しかし、関西に住んでいても、ある程度の年齢より下であれば、知らない人もいるかもしれない。毎日放送ラジオ「ありがとう浜村淳」という看板番組を持っておられる。昭和49年に放送開始なので、長寿番組である。「さて、皆さん」とうい浜村節は、86歳になった今も、番組内で炸裂する。ネット上で、浜村淳さんを、暴走トーク、ボケなどと決めつけた文章を見かけるが、とんでもない、浅はかな、考察に過ぎない。コロナ渦で、2020年4月28日から5月23日まで自宅で、スカイプ出演した。そして、2021年に病気が発見され、2日間だけ休養するが、後は、1回だけ電話出演しただけで、復帰されている。驚くべき生命力を感じさせるとともに、自分が、司会をしている番組に穴を開けたくないとういう、プロ魂には感服させられる。映画の解説では、全部、筋書きを話してしまう、レベルが低いなど、様々な反論があるだろう。しかし、あの独特の口調で、86歳になった今でも続けられておられるのだから、誰も文句の付けようがないない。北川景子が、ゲスト出演した際に、その態度の悪さに激怒したことは、あまりにも有名な話である。怒って当然であると思う。北川景子は、関西ローカルの番組に、わざわざ忙しいのに、出でやっているという態度を取ったのであろう。演技は下手なのに、勘違いした、最近のタレントがあまりにも多すぎる。浜村淳の芸歴は相当古い。昭和32年頃に、渡辺プロに所属していたのだから、芸能界の生き字引である。「ぱっと出てきて、天狗になっている」芸能人など、太刀打ちできる相手ではないはずだと思う。芸能界で、生き残るとういうことは、大変な修羅場をくぐってきたはずである。舌禍事件で、芸能界を干された、北野誠氏も、浜村淳さんのことは、絶対に悪く言わなかった。観察力に長けて、インチキ臭い技能人、政治家、文化人を批判し続けた、北野誠氏が、一目置く存在なのだから、浜村淳さんの芸は本物であることは間違いないだろう。浜村淳さんのような、正当派の芸人が少なくなっていくのが非常に残念である。