孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

無能のように見えるが 実は「わかっている男」になりたいと思う 「生まれつきの感受性」は人の千倍持っている自負はあるつもりだ

「わかっている男」が最近少なくなってきたと思う。「わかっている男」非常に抽象的である。誰にでも理解できるように説明するのは非常に難しい。敢えて言えば、「物事の本質」を瞬時に見極めることが出来る男。初対面で会う人間が、「如何なる人物であるか」を相手の目を見て判断できる能力を持った男。そして、一番肝心なのは、「いい女」を見つける能力のある男のことだ。「物事の本質」を見極めることが出来ない人間があまりにも増え過ぎたように思えてならない。「陰謀論」に騙される人間がその最たるものだろう。彼らは、自分の頭で考えようとしない。「メディア」あるいは「インフルエンサー」の言うことを何の疑いもなく妄信してしまう。こうした傾向を強くしたのは、「ネット」の影響が一番大きい。Twitter何かを見ていると、どれもこれも同じような考えしか散見されない。また、不思議なのは、「若者のテレビ離れ」が激しくなったといいながら、Twitterで「トレンド」になるのは、「テレビネタ」である。それほどにテレビの力というものが絶大であることを証明していると、私は思う。次に、初対面で会う人が、「如何なる人物であるか」を瞬時に見極めるという点。私は、人との出会いは、「初対面」で決まると考えている。相手の目を見れば、およそどのような人間か分かるものである。また、自分の事をどのように見たか、瞬間的に相手の目に全てが表れるものである。「自分を馬鹿にした目で見たであるとか」その逆に、「自分を好意的に見たであるとか」、初対面の時に人間は、相手を知らず知らず値踏みする。優れた人物は、そういう「バイアス」をかけることなく、ありのままに相手を見ようとするものである。そして、一番肝心なのは、「いい女」を見つける能力である。頭も切れて、性格も良い申し分がない男であっても、疑問符を付けたくなる女を妻あるいは恋人にしているケースが非常に多い。これは、一体どういう事なのだろうか。女性経験が少ないから、「女を見る目」を養う経験を積めなかった。それも考えられるが、やはり「人柄の良さ」が仇となって、疑問符を付けたくなる女でも許してしまうのではないだろうか。私は、子供の頃から非常に感受性が強かった。そのため、このような社会生活不適応者になったのだと思う。しかし、それが逆に良かったのではないかと考え始めている。私は、「わかっている男」になるべく日々努力していきたい。

「結婚相手」に男の容姿を重視する女が過去最高に 自分の「顔」を鏡で見なさいと言いたくなる 「少子化」の原因の一つに「婚姻率の低下」が語られない現実

「結婚相手」の男性に相手の「容姿」を重視する女性の数が、過去最高という統計が算出された。聞いて、驚くことはない。そういった傾向は、「バブル景気」直前の1980年代中盤から続いているからである。岸田首相の「異次元の少子化対策」が問題となっているが、リベラル派は、全く根本的なことが分かっていない。そもそも、「少子化」の原因は、「婚姻率」の低下にある。生涯未婚率が、男女ともに、年々増加している。その原因について、社会の価値観が多様化して、結婚という制度にこだわらなくなった。あるいは、「非正規雇用」の増加で、男性が、結婚できないほど、経済的に余裕がないなどの通り一遍の綺麗ごとしか語られない。最大の原因は、女が、男の容姿を品定めすることにある。こう言えば、必ず、男も「女の顔」を気にするではないかという反論が返ってくる。確かに、男も女の顔を多少は気にするだろう。しかし、女の男の顔に対する「品定め」は、常軌を逸していると言っても良い。男は、ある程度の所で妥協して、さほど女の顔に固執しない。一方、女は、異常にまで「男の顔」に固執する。「イケメン」でないとダメと、ふざけたことを抜かすバカ女があまりにも増加した。その背景には、行き過ぎた「フェミニズム的」なものがあると、私は思えてならないのだ。かつて、女性が、生きづらい時代があったことは紛れもない事実である。そうした社会を変革するべく闘ってきた女性たちの活動は評価できる。しかし、現代において、「女性の人権」が侵害されているというのは事実誤認でしかない。むしろ、男性の方が生きづらい世の中になってきた。「女性の自立」と「女のわがまま」をはき違えている者があまりにも多すぎる。そうした風潮を社会が、黙認しているような気がしてならない。女が、「イケメン」を所有する、あるいは、恋愛や結婚において、男の顔を「品定めする」。これは、男の顔が、「商品化」されているという新たな差別問題である。しかし、フェミニストたちは、社会問題化しようとせず、むしろその差別に加担していると言っても過言ではない。「イケメン」とされている男。私からすれば、全然「格好良くない」。中身が全くなく、人間としての「味わい深さ」が滲み出ていないからだ。男の顔を品定めするバカ女に、私は言いたい、「自分の顔」を鏡でじっくり見なさいと。

 

「袴田事件」の再審開始決定 警察は、「証拠物」の「5点の衣類」を捏造したばかりか 「取調室」で「人権蹂躙」の取り調べをした 戦後最大の「冤罪事件」だ

大変喜ばしい朗報があったので特別投稿する。本日、「袴田事件」について、東京高裁は、再審開始決定した。再審の可否の争点は、犯行着衣の衣類と衣類の「DNA型鑑定」の証拠評価であった。決定は、弁護団の事件結果などについて、「衣類の赤みが、消失することから推測できる」と認定して、袴田巌さんを犯人にした「確定判決」に合理的な疑いが生じることは明らかとした。「袴田巌さん以外の第三者が、味噌タンク内に隠匿した可能性が否定できない」として捜査機関による「隠匿の可能性」が極めて高いとした。

袴田事件」については、私は、このブログで何度も書いてきた。「袴田事件」は、はっきり言って「戦後最大の冤罪事件」である。「5点の衣類」は、警察が、味噌タンクに入れたことは明らかな「証拠捏造」だ。「袴田事件」について、袴田巌さんが「無実」であることの証拠を挙げれば枚挙に暇がない。そのため割愛して、違う機会にまた論じていく。 

袴田事件」が許し難いのは、「警察組織」が、「人権蹂躙」と言える「過酷な取り調べ」をしたことだ。暑い真夏の最中に、 1日平均12時間以上の取り調べをして、便所にも行かさない、「拷問」以上の「過酷な取り調べ」をしたことだ。袴田巌さんは、「プロボクサー」であるにもかかわらず、最後は、意識朦朧としたまま、警察官の言う通り「虚偽自白」をしてしまう。「プロボクサー」として、肉体と精神を鍛え抜いた袴田巌さんが、警察の「取り調べ」に屈してしまうには、いかに「警察の取り調べ」が壮絶であったか。「警察組織」の取り調べは、人権蹂躙、いやそれ以上のものだ。 

袴田巌さんは、88歳。弟を一貫して支え続けてきた姉の袴田秀子さんも90歳。2人の人生を奪った、「警察組織」の鬼畜の所業を絶対に私は許せない。 

 

時間の関係で、うまく纏めれず、感情的になった。  これからも、「袴田事件」については「ブログ」で書いていくつもりだ。 

 

 

あまりにも激しすぎる感情を 日々の生活で押し殺さざるを得ない私 「ブログ」と「左翼的雑誌」への投稿だけでは限度がある しかし私は絶対に諦めない

私が、「ブログ」を始めたきっかけは、ある社会問題に関心を持ったからである。しかし、この問題について書くと、閲覧者の数が、3分の1に減ってしまう。別に閲覧者の数が減っても構わない。そもそも、読者が18人。それも、もうすでにブログをやっていない者もいる。世間で知られていない社会問題をもっと多くの人に知らしめるには、軽い「芸能ネタ」なども書いて、ある程度「私のブログ」の存在を知らしめなければいけない。そのため、「ネタ」を探して書くのが非常に大変である。しかし、40歳を過ぎれば、知力が衰えてくるので、長い文章を書くことによって頭の体操にもなると思って、とりあえずが続けている。私が、関心を持った社会問題は、専門家が独占していると言っても過言ではない。絶対に「朝日新聞」や「毎日新聞」の読者の投稿欄に投稿する一般人はいない。そのためか、私は、「左翼系」の雑誌に投稿する。いくら「左翼系」の雑誌といえども、編集者が、その社会問題にのみに関心を持っている訳ではない。やはり政治問題が主である。私の投稿も限度があるということだ。私が悔しいのは、専門家がこの社会問題を独占していて、素人が口を出すなという「コンセンサス」が共有されていることである。しかし、私は、この社会問題に関しては、「語る資格」があると胸を張って言える。何故ならば、普通に人間が生きていくうえでは、絶対に体験し得ないような体験をしたからだ。だから、専門家は、社会的地位があるかも知れないが、頭だけで書いている。しかし、私は、「あまりにも激し過ぎる感情」を文章という形で表現することで、何とか荒ぶる感情を抑えてきた。しかし、私ごときが「左翼系」の雑誌に投稿しても、ほんの小さい記事として掲載されるだけである。専門家の書いた「文章」は、表面的な知識の羅列に終始していることが多い。まさに専門バカである。しかし、私は、「情念」でひとつひとつの言葉を紡いでいる矜持がある。とにかく、もっと「影響力のある立場」になって書きたいが。しかし、私は、諦めずにこの社会問題と対峙していきたいと思う。

 

二階俊博と一緒の姿をtwitter上にアップさせて 自己満足する 極右の老舗の若旦那 この男を重宝する「朝日新聞」や「毎日新聞」の欺瞞

はっきり言って、「朝日新聞」や「毎日新聞」は、一見してリベラルなことを主張しながら、言動不一致の行為をしている。和歌山県で元「青年会議所」の役員を務めたことがあり、老舗の若旦那で、極右的な活動をして、地元のテレビに出演したりする男がいる。「朝日新聞」や「毎日新聞」は、この男を好意的に取り上げている。毎日新聞社は、この男の店の「広告」を掲載していたことがあった。「毎日新聞社」が目に余るのは、かつて、入社したばかりの女の記者を「和歌山県警」の機動隊に一日特別入隊させたり、他の新聞社よりも「和歌山県警」の提灯記事を書く。「リベラル」を自認する大手新聞社が、入社したばかりの若手記者を「サツ周り」させて、「警察寄りの思考回路」にさせて、将来は、編集局長といった「重要ポスト」に昇進させていくというのが実態である。その点、日本共産党の機関紙「赤旗」では、そういった悪しき習慣がない。果たして、日本共産党が、造反者を処分したことに対して、「朝日新聞」は批判する資格があるのだろうか。

「死守せよ、だが軽やかに手放せ」 米津玄師もお気に入りの言葉 現代のように「混沌とした時代」を生き抜くには「発想」の転換と「強い信念」が必要だと思う

「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という格言がある。これは、元々は、イギリスの演出家であるピーター・ブルックの言葉である。米津玄師がこの言葉を気に入っていて何かのインタビューで引用していた。さすが、米津玄師だと思った。現代のように、価値観が多様になってきた時代において、「固定された価値観」に縛られずに生きていくには、柔軟性が必要である。しかし、軽過ぎてもいかず、「これは絶対に他人に譲らないという」ような強い信念も必要である。私がこの言葉を知ったのは、映画監督の深作欣二氏が、この言葉を何かの色紙に達筆で書いていたからである。深作欣二監督も、米津玄師と同じように「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という言葉を気に入っていたのだろう。深作欣二監督も、信念の人である。大ヒット作「仁義なき戦い」で世に知られるまでは、あまり冴えない映画監督であった。しかし、努力家で、深作欣二監督の師である猪俣勝人というシナリオライターが、「彼は、非常に努力家で、日大芸術科学科の学生の頃に、他の学生が、シナリオの授業で、書くことを怠けるのに対して、深作欣二だけは、懸命にシナリオを書いて、私の添削を求めた」と述懐している。おそらく、猪俣勝人という名前を知っている人は皆無であろう。もし知っていれば、相当の「日本映画」に精通したマニアである。深作欣二監督は、天才というより「努力」と「信念」の人だと私は思う。「仁義なき戦い」は、工藤栄一監督が候補に挙がっていた。工藤栄一監督の事については、私は、ブログで度々書いているのが、ほとんどの人は知らないようである。工藤栄一監督は、「必殺シリーズ」の礎を築いたと言って良いだろう。各シリーズにおいて、初回を演出して、「シリーズ」の方向性を決定的なものにした。「必殺シリーズ」と工藤栄一の事はまた別の機会に論じたい。深作欣二監督は、人間的にも魅力があった。無名の役者の名前を覚えて、一人一人に演技指導した。映画に参加する者にスターも端役の人間も同じであるという考えをする映画監督はほとんど存在しないだろう。また同時に「激しい情念」を持っていたから、仁義なき戦いのような歴史に残る「バイオレンス映画」を作ることができたのだろう。「死守せよ、だが軽や手放せ」は、現代のように混沌とした時代を生き抜くには、何らかの示唆を与えてくれる。私も、他人から何と言われようと、「世間の既成概念」に挑戦する「独自の思想」を信じて生きていきたいと思う。

日本一優秀な「和歌山県警」の本部長は「警察官僚の出世コース」である 直江利克警視庁警務部長が「神奈川県警本部長」に 中村格前警察庁長官をかつて和歌山県警捜査2課長を歴任

和歌山県警は、日本一優秀な警察組織であると言っても過言ではない。紀州の「ドン・ファン」事件をいまだ裁判に持ち込めないでいる。この事件では、鳴り物入りで、刑事部長が記者会見して、一部メディアは、「状況証拠」を積み上げた地道な捜査を積み重ねたと評価したにもかかわらず、被告の女を起訴するに至っていない。また、この事県の捜査で上京した、和歌山県警捜査1課の讃岐真生が、女性を盗撮した上に、気づかれて暴行を加えて警視庁に逮捕されている。古くは、「和歌山カレー事件」があるが、これも「ヒ素の鑑定」が極めて杜撰で、科学捜査の名を貶めるものである。警察官僚にとって、和歌山県警本部長は、出世コースの通過点である。警察庁20日付け人事で、和歌山県警本部長を歴任した直江利克が、神奈川県警本部長に就任した。尚、伊藤詩織をレイプしたとされる山口敬之の逮捕状をもみ消した前中村格警察庁長官は、日本生命の顧問に就任した。私は、伊藤詩織の事件そのものが極めて胡散臭いものである。しかし、伊藤詩織を批判することは、ある種の「タブー視」となっていることが事実で、幾多の人間が彼女を批判したが敗北している。これも、由々しき事であるが、全く問題視されなかった。中村格も若き日に「和歌山県警捜査2課長」というポストを経験している。つまり、和歌山県警は、「警察官僚」にとって、出世コースの通過点ということだ。警察官僚は、ご気楽な稼業である。