孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

憧れる人がいないなら 自分自身が「憧れる人」あるいは他人から「憧れられる人」になりたいが 難しい事であり今日も私は懊悩する

人間は、誰もが「憧れの人」を持っているだろうと思う。しかし、私は、そういう人がいない。ただ、映画やドラマあるいは、小説という虚構の世界の住人に憧れる傾向が、人一倍強い。現実よりも虚構の世界にコミットしやすい性格なのだろう。私たちが生きていくうえで、「憧れる人」を持つと、生きる指針を持つことができ、ポジティブになり社会生活を送りやすい。「憧れる人」の生き方に近くづくように、自分自身の課題を設定して、目標に向かっていけば良いのだから。私が、「憧れる人」がいないのは、極度の人間不信と猜疑心の強さの故であると思う。どういうことかと言うと、「立派な人だなぁ」「凄い人間のできた人だなぁ」と感じても、その人の裏の部分を詮索してしまいたくなるのである。あるいは、この人も「結局は、自分が不利の状態になると、私を裏切るのではないだろうか」という不安が頭をもたげてくる。私の猜疑心の強さは、精神分析的には、幼児期における、母親との関係にあったのではないだろうかと、最近思うようになった。フロイト派の精神分析家ホーナイは、母親の愛を奪われない想いと、母親に対する「微かな敵意」のようなものを持ち、その桎梏の中で生きる幼児は、将来神経症になると主張した。このホーナイの学説は、フロイトのようにすべてを「性的なこと」に関連づけていく精神分析などよりも説得力がある。私が、「憧れる人」がいないのもそうした幼児期からの生育歴によって形成された性格に拠るものである。虚構の世界の住人に憧れる傾向が強いのは、一般的に「おたく」と言われているが、私は、「おたく」ではない。「おたく」は、現実世界を見通す目がなく、「他者性」が欠けている。私の場合は、一見して「他者性」が欠けているように見えるが、実際の内面では、「他者」という存在が、自己にとって、利益をもたらす者なのか、不利益をもたらす者なのかと常に考えている。「憧れる人」がいない私は、自分が、「憧れる人」あるいは他者から「憧れられる人」になれば良いと最近思うようになった。その道が、はるかに厳しいもので、他人の真似をして生きていく方がよほど楽である。しかし、私は、人生を賭けて、理想の自己に近づく努力をしていきたいと思う。