孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「嘘くさいもの」に対して過剰反応して文章を書く私 現代は「益田ミリ的」な文章が世間受けする しかし「血圧200」を超えて倒れても 「怒りと怨念」で書き続けていきたい 

私は、「嘘くさいもの」に対して異常なまでに反応してしまう。普通の人が気付かないようなことを瞬時に気付いてしまうのである。例えば、喫茶店に入れば、隣に座った人間の店員さんに対する態度によって、「如何なる人間であるか」ということが分かってしまう。店員さんに、横柄な態度を取る輩を見ると、気になって仕方がないのだ。「感情過多」な性格は、幼児期から始まっている。まだ言葉も話さない幼児の頃に私の家に来客があった。その来客に向かって、「お客さん。帰って」と私は面と向かって言ったそうだ。その来客は、「上流階級ぶった」人たちであったようだ。本当のところ、由緒ある家柄などは、あやふやなところが多い。幼児の私は、そうした人たちの「お上品な振る舞い」の裏にある「傲慢さや虚飾に塗固された生活」が気に食わなかったのだろう。「三つ子の魂百まで」と言われるように、私の「上流階級ぶった人」への猜疑心は消えることがない。私が、「ブログ」を始めたのは、ある社会問題に関心を持ったからである。「左翼系雑誌」に投稿をしているが、それだけでは満足しない。その社会問題を書くだけでなく、「身辺雑記」も書くと、「アクセス数」が増加していった。その社会問題について書く時は、「実体験に基づく怒りと無念さ」から書くので、筆が進み、直ぐに書き上げることができる。しかし、その社会問題を書くと、「アクセス数」が三分の一に減ってしまう。その社会問題を多くの人に認知してもらうためにも、「違うネタ」を書かなければならないと思い、非常に苦労している。「ブログ」を一端始めて、やめるのは、「何か勝負に負けた感じがしてならない」からだ。こういうところにも、私の「過剰な性格」「完璧主義」が現れている。私の書く「文章」は、怒りに満ち溢れている。昔は、「本当のプロの作家」にも、私と同じように「パッション」に満ちた文章を書く方が多くおられた。時代の趨勢か、そのような「怒りと怨念」の文章は、世間受けしなくなった。益田ミリという作家が売れっ子のように。益田ミリの文章は、「ふざけているのかと思うほどに緩い日常」を描いたものだ。益田ミリの文章が、世間受けする時代、私が書く「怒りと怨念」に支配された文章は世間から認められない。私は「血圧200」を超えて倒れるのではないかと思うぐらい、感情の起伏が激しい時がある。しかし、私は、「怒りと怨念」だけで文章を書き続けていきたい。