孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

ひきこもりラジオ 嘘くさい ステレオタイプなひきこもり像 世間のイメージをなぞっただけ 奇妙な連帯感 吐き気がする ニセひきこもりが多すぎる

ひきこもりラジオを一度だけ聞いた。アナウンサーが世間のひきこもりにやさしく語りかけるのが嘘くさく感じ、吐き気がした。全国にどれだけのひきこもりが存在しているか分からない。政府が公表する数字も当てにならない。「自分がひきこもりである」と申告すれば、ひきこもりにカウントされる。そもそも斎藤環が20数年前にひきこもりを定義づけたガイドラインからかなり乖離している。私は斎藤環の見解を全面的に支持しない。しかし斎藤環の主張も一理あると考えている。「働きもせずに、家でひきこもている」とやはり精神医学的に「統合失調症」と診断されてきた負の歴史があった。そうした認識を修正するために、斎藤環はひきこもりのガイドラインを作った。ただ、年々変わっていくことは仕方がないだろう。しかし「家族以外としか人間関係」がないという点だけは、ひきこもりの最大要素である。それが最近「主婦のひきこもり」「女子のひきこもり」がどうのうこうのとやたら声高々に主張するバカが増えてきた。また「自分のいきづらさ」を何かのせいにするために、自称「ひきこもり」と名乗る手合いも多くなってきた。「ひきこもりラジオ」のリスナーでメールを送ってくる輩の文章があまりにも「紋切り型」「ステレオタイプ」なのだ。既視感があって、どこにでも転がっている話なのだ。「ひきもり」は、ひきこもりの数だけ「当事者独自の苦悩」があるはずだ。「切実さ」「無念さ」「悲しさ」「絶望」そうした切迫した感情が全く伝わってこない。「本当のひきこもり」は声を出せないのが現実なのだろう。彼らは、もう人生を諦め切っている。誰かとつながって、再び人生を生きることさえ放棄している。何が彼らをそこまで追い込んだのか。やはり私は「過度のルッキズム」にあると考えている。ひきこもりは、恋愛弱者、性的弱者である。そうした「性的なこと」がひきこもり問題ではタブー視されている。ひきこもりを自称して、特をしている奴らがいる。ブログの世界にも。そういう手合いを見ると、吐き気がする。