孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

ひきこもりの子供が親とすれ違うのは 親の「想像力」の欠如にある 特に団塊の世代は「逃げ得」で子供たちの世代が生きづらいことに全く無頓着ではないだろうか?

長期間ひきこもっている当事者が、親に暴力を振るって、痛ましい事件が相次いでいる。「暴力」は絶対許されることではない。しかし、こうした事件の背景には、親が、ひきこもる子供に無理解なことが引き金となっていることがあるように思えてならない。「ひきこもり支援」において必要なのは、親と子の対話である。しかし、現在の行政の「ひきこもり支援」では、そうしたことが全くなされていない。ただ、単に、「障害者手帳」を申請させて、「障害者雇用」の就労させる、あるいは、生活保護を受給させるといった形式的なものばかりである。本当に必要なのは、ひきこもり当事者が、何故、これほど長期にわたって、社会から撤退せざるを得なかったのか。その苦悩を受容することにある。残念ながら、「親方日の丸」の公務員には、そうしたことが、煩わしいだけで、真摯にひきこもり当事者とは向き合わない。親が、ひきこもりの子供を理解できないのは、「ジェネレーションギャップ」が大きく作用している。特に「団塊の世代」は、幸せな生活を享受できた最後の世代で、子供たちが生きる「文化」に対しては、全く想像だに出来ないということがしばしば起きる。団塊の世代は、他の世代よりもあらゆる面において、得をしている。「恋愛や結婚」においても、団塊の世代は、働きさえすれば、異性と誰かが縁を作ってくれる。どういうことかと言うと、団塊の世代は、見合い結婚が廃れ、「恋愛結婚」に移行した。しかし、会社の上司が「お膳立て」してくれたりして、「結婚」への「ハードル」が現代の若者よりも低かった。何よりも、女性が、「保守的」で、現代のように「恋愛弱者」が生まれることはなかった。一般的に「ひきこもり」は、「恋愛弱者」である。彼らは、青年期において「性的な挫折」を経験している。「自分は、一生、誰とも結婚や恋愛できない」と絶望して、自らの人生を放棄してしまっている。こうした苦悩は、切実なものであるが、個人的な問題として、真正面から取り上げられることがない。何故ならば、「性的なこと」は、「私的なこと」で、議論することはある種のタブーとなっているからだ。「性的なこと」ほど、青年期の課題であることは、精神医学的にも重要であることは、フロイト以来自明のことであるにもかかわらず。通り一片のきれいごとを論じるよりも、「性的な挫折」をしたひきこもり当事者の絶望と虚無感に、もっと向き合うべきではないだろうか。