孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

だめ連 「働かない」「モテない」 資本主義社会への「アンチテーゼ」を掲げ 新たな社会運動 「一過性の頭が良い人にしか理解できない集団」に終始してしまった ひきこもり・ニート問題の突破口にもなり得たのに非常に残念だ!

昨年、「だめ連」のペペ長谷川が亡くなった。この「だめ連」は、90年代に「働かない」「モテない」をスローガンに「オルタナティブな生き方」を模索する集団として東京の早稲田で活動を始めた。亡くなったペペ長谷川と神永恒一が早稲田大学の2部の学生であり、ふたりが中心的なメンバーとなり、様々な人たちが「だめ連」に集まって、結成された。「だめ連」の活動は、新たな「社会運動」として一部のメディアと社会学者に大絶賛された。私も和歌山の田舎に住んでいた高校生であった1999年頃に「だめ連」が紹介されているNHKのテレビ番組を見て衝撃を受けた記憶がある。先日、図書館で「だめ連」に関する本を借りて、もう一度読み直してみた。改めてだめ連の取り組みは、時代の最先端を行くもので、非常に頭の良い人たちの集団であると再認識させられた。宮台真司上野千鶴子らも大絶賛していたが、2000年代には次第にメディアでも取り上げられる機会がなくなって、忘れ去られた存在になった。今も活動をしているのだが。「だめ連」は、「だめ人間」を強調しているが、実際は、「インテリであるが社会に適応できない人たち」の集団である。「自分が社会に適応できない」ことを肯定的に捉えて、「既成の社会」に物申すという意味で、私は新たな「社会運動」で、この社会を根幹から揺るがすのではないかという予感と期待があった。しかし、残念なことに、「一過性の頭が良い人にしか理解できない集団」に終始してしまった。「だめ連」の衰退と同時に2000年代初頭に「ひきもり」がクローズアップされ始める。斎藤環が、「ひきこもり」を定義づけて、NHKで「ひきこもり」を取り上げ出したのもこの頃である。「ひきこもり問題」がますます深刻になってきている。80・50問題に象徴するように、親が死んだ後に「高齢のひきこもり当事者」はどうするのかと。「働けないひきこもり」を無理矢理「精神病疾患者」に仕立て、「障害者手帳」を申請させて、「福祉の支援」に乗せると言うのが今の主流派の考えである。こうしたことは「当事者の主体性」を剥奪するものでしかない。確かに現実は厳しくて、きれいごとを言ってられない面もある。しかし社会には「生きていく抜け道」があるものだ。過度に悲観する必要もない。「だめ連」のような集団が市民権を得られていたならば、ひきこもりなども「一つの新しい生き方」として寛容に受け入れられていたように私は思えてならないのだ。「だめ連」がポピュラリティーを得られなかったのは、非常に大きな社会の損失でもあるだろう。