孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

雨宮処凛 ミニスカ「右翼」から 左派論客に転向 今や文化人気取り オーバードーズをして自殺未遂の経験 「ひきこもりたち」は「家に立てこもっている」などと大袈裟に「社会的弱者」の味方の振りをする「うさん臭さ」

雨宮処凛という週刊金曜日編集委員を務め、今や「左派文化人」気取りの人間がいる。雨宮処凛は元々「ミニスカ右翼」であったが、「左派」に転向した。壮絶ないじめ体験があり、「オーバードーズをして自殺未遂をした経験があると言う。その壮絶な体験から、「生きづらさ」を抱えた若者たちの気持ちが誰よりも理解でき、「社会的弱者」に寄り添う社会であるべきと主張している。どうも私は雨宮処凛を胡散臭く感じてならないのだ。「壮絶ないじめ体験」があったと言うのだから、嘘とは思えないが、雨宮処凛の場合どう見ても「いじめられっ子」には見えない。むしろ「いじめっ子」に見えるのである。雨宮処凛鈴木邦男という「新右翼」の影響を受けた。確かに鈴木邦男は、ただの「右翼」とは違い、人間的魅力がある。しかし雨宮処凛は、「新右翼」の思想性に惹かれたのではなく、「自己演出」のために「新右翼の活動家」という道を選んだのではないだろうか。極論すれば、「右」でも「左」でもどちらでも良いのである。「ネット右翼」とさして変わらないだろう。「ネット右翼」も「一貫した思想性」などなく、「嫌韓」や「反日」とアホの一つ覚えのように言うことで、「カタルシス」を得ている「頭の悪い集団」でしかない。かつては、思想に殉ずる人たちが「右」でも「左」でもごくわずかながら存在した。「朝日新聞社」で割腹自殺した民族派の「右翼」である野村秋介などその最たる人だろう。日本赤軍塩見孝也と言った連中もしかり。雨宮処凛は、「ひきこもり」について「現代社会の在り方」に反発を感じて「家の中に立てこもっている」と言う表現をしていた。あまりにも「大袈裟」としか言いようがない表現である。雨宮処凛は、「ロスジェネ世代」である。「ロスジェネ世代」のひきこもりはまさに80・50問題の「当事者」である。「就職氷河期」など様々な要因でひきこもった当事者も多いだろう。しかし、「ひきこもり」は、「現代社会の在り方」に反発など感じていないんが現実ではないだろうか。むしろ「没社会的」というか「社会の問題」など関心がない。雨宮処凛は、本物の左翼不在の時代の「申し子」のような存在に私は思えてならないのだ。