孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

呼ばれない「同窓会」「結婚式」 ひきこもりで孤独な中年男になろうとしている私の絶望感

長年、ひきこもっていると、未来のことを考えることを回避して、過去の事ばかりを考えてしまう。特に、楽しかった時代のことである。世間で流布されているように、ひきこもりは、過去に壮絶ないじめに遭った者ばかりではないと思う。人生のある段階で、何かにつまづいて、立ち上がることができず、ずるずると、ひきこもってしまったというケースが大半ではないだろうか。最近、私が卒業した高校の同窓会組織が目立った活動をしている。おそらく、地元で商売をしている会社の社長たちが、自分たちの仕事のために、人脈づくりをするという打算があるのだと思う。ネットで会員登録できるのだが、ひきこもりで肩書のない私は、登録する気がない。おそらく、それなりに社会的地位を築いた者であれば、躊躇することなく会員登録するだろう。ひきこもりにとって、つらいのは、肩書がないということである。それまで、感じよく接していた人間であっても、「私が、ひきこもりである」ということが分かると、手のひらを返したような態度を取る人がある。やはり、社会は、「働いていない人間は、まともではない」というコンセンサスがあるように思えてならない。私が、高校を卒業したのが、2000年。あれから、22年も経過してしまった。同級生の中には、霞が関の官僚、開業医、弁護士、超一流企業の弁護士になった者が非常に多い。いつから、彼らと住む世界が違うようになったのかと思うと悲しくてやりきれない。小学校の同窓会は、20年程前にあって、電話がかかってきて、出席の有無を問われたが、出席を断った。まだ、ひきこもりではない時代であったが、何か鬱々とした感情を抱えていて、同級生たちが幸せなのを見るのが億劫だったからだ。以後、小学校も、高校の同窓会も呼ばれることがない。おそらく個人単位では、同窓会をしているかもしれないが、大きな会場を設けてはしていないと思う。もしかしたら、自分だけが呼ばれないのかもしれないが。「結婚式」は呼ばれることがない。ちゃんとした会社で働いた経験がないのだから当然である。ひきこもりが長引くと、世間から存在する忘れ去られ、自分という輪郭が薄れていく錯覚に陥る。この苦悩は、働いている人には想像がつかないだろう。以前、心理カウンセラーをされている方に、「あなたは、これほどの過酷な状態を理性で抑えていきてますね」と褒められたことがある。だから私は思う、「あまりにも長期間のひきこもりは、冷静を保っていられるのは稀であるということ」。彼らは、日々極限状態の中で生きている。そうしたひきこもりを単純に、精神疾患か否かと、二者択一にカテゴライズすることは、絶対あってはならないと思う。