孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

日野町事件 警察官たちの凄まじい暴力 証拠の捏造 「娘の嫁ぎ先ガタガタにしたろか」という脅し 無実でありながら獄死した阪原弘さん 滋賀県警の所業は鬼畜にも勝るものだ

「日野町事件」が、2月27日に大阪高裁で、再審を開始するかの決定を下す。「日野町事件」は、1984年11月29日に、滋賀県日野町で、地元の酒屋の女主人が、行方不明になり、翌年の1月8日に宅地造成地の草むらから絞殺遺体で、見つかった。そして、3か月後には、盗まれた手提げ金庫が発見された。事件から3年後に阪原弘さんが逮捕される。阪原弘さんは、殺された女性が営む酒店の「壺入り客」であった。「壺入り客」とは、量り売りで、酒を分けてもらって店内で飲む客のことをいう。阪原弘さが逮捕される原因となったのは、行方不明になった後に、地元で行われた捜索に参加しなかったこと。あるいは、葬儀に参加しなかったこと。警察が阪原弘さんを逮捕するまで、3年間の空白があたのは、当初、阪原弘さんには、アリバイがあった。しかし、そのアリバイに不明な点があることが分かり始め、急遽、滋賀県警は、阪原弘さんを逮捕して厳しい取り調べをして、「自白」を引き出すことに全力を賭ける。「取り調べ」は、想像を絶するものであった。「鉛筆を重ねたもので、頭を小突く」「パイプ椅子で、蹴飛ばす」そして何よりも信じ難いのは、「娘の嫁ぎ先に行って、家の中をガタガタにしてきたろか」などの脅迫があったことだ。暴言、暴行を伴った、まさに、戦前の特高警察のような取り調べが、平然と行われていたのである。憲法38条と刑事訴訟法319条違反で、阪原弘さんの自白は、任意性がなく、本来であれば却下されるべきである。しかし、阪原弘さんは、1995年に大津地裁で、無期懲役の有罪となり、控訴したが、1997年大阪高裁で控訴棄却になり、2000年に有罪が確定し、阪原弘さんは、服役する。そもそも「日野町事件」は、冤罪であることを裏付ける証拠があまりにも多い。まず、阪原弘さんが、盗んだ金庫の投棄場所を自ら警察官たちに案内したことになっている。しかし、弁護団が「再審請求」で提出した新証拠は、阪原弘さんが警察官たちを案内した写真のネガは、帰り道に向きを変えさせて、阪原弘さんがあたかも一人で金庫の場所を案内したかのようにした明らかな「証拠の捏造」を裏付けていた。また、阪原弘さんが盗んだ金額よりも高額のお金が被害者の家の中に残されていた。今回の「再審請求」で弁護団が提出した、「新証拠」は、「死斑」である。人が死亡して、血流が止まると、血液が、重力に従って、落ちてくる。その時に皮膚の色の変化が現れるのが、死斑である。名古屋市立大学の青木康博氏は、阪原弘さんの「自白」によって、遺体の「死斑」は形成しないと主張する。阪原弘さんの「自白」は、被害者の体の「左側」を下にしたというものであった。その「自白」通りだとすると、体の左半分を中心に「死斑」ができるが、解剖記録による遺体の「死斑」は、「背中全体に出ている」とされた。「自白」と遺体の状況が矛盾することが明らかである。「日野町事件」の供述鑑定に携わった浜田寿美男氏は、2006年に広島刑務所に収監されていた阪原弘さんの様子を次のように語っておられる、「私は鑑定のために、アクリル板越しに阪原さんと面会した。そのころ阪原さんは、体重が35キロを切っている状態で、痛々しいほど、衰弱していた。それでも精一杯のことばで、自分はやっていないと訴え、一時間ほどの面会の最後には、私に向かって、先生、早く出してくださいよ」と懇願された。「その懇願の姿は、あまりにもストレートで、まるで私が彼を解放する力を持っていると信じ込んでいるかのようにすら見えて、私は、すっかりとたじろいでしまった」。阪原弘さんが、浜田寿美男氏に訴えた言葉に嘘偽りがないだろう。それから、5年後に阪原弘さんは獄死する。現在は、息子の阪原弘次さんが、「再審請求人」となって「再審請求」を争っている。滋賀県警は、阪原弘さんを犯人であると信じ込み、「取り調べ」において、暴力、暴言の限りを尽くし、「自白」を引き出したのみか、「証拠の捏造」までしている。滋賀県警の所業は、鬼畜にも勝るものだ。雪冤を果たすことなく、非業の死を遂げた阪原弘さんの死を無駄しないために、裁判所は、「再審開始」決定をし、一刻も「再審無罪」判決を出すべきだ。