孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

免田事件 34年間も死刑囚の汚名を着せられ恐怖の日々 「再審無罪」となっても「世間」の偏見の中で生き続けた免田栄さん 「警察」の体質は全く変わっていない

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「免田事件」と言えば、わが国初の死刑囚に対して、「再審無罪」となった事件である。昭和23年12月29日に熊本県人吉市で、祈祷師一家が襲撃されて、夫婦が殺害されて、2人の娘が大けがを負った事件である。昭和24年の1月に免田栄さんが、別件逮捕されて、警察官たちから激しい取り調べを受けて、嘘の自白をしてしまい、死刑判決が確定する。その後、六度の再審請求を行い、昭和58年に無罪判決が下される。「免田事件」が有罪となった証拠構造は、極めて曖昧なものであった。何ら物的証拠がなく、自白が決定的に「有罪」へと結びついた。まず、免田栄さんが、「右手で腰のナタを取って、2,3回斬り付けた」という自白通りの犯行態様では、遺体の状況と客観的に一致しない。また、犯行に使用した「ナタ」に「米粒大」の血痕があったというが、鑑定不可能なほど小さいものであった。そして、逃走経路にも、不自然な点があった。存在しない、「六江川」で「ハッピ」を洗ったとか、一晩で、30数キロも踏破するなど、ありえないものであった。そして、「再審無罪」に結びついたのは、免田栄さんの「アリバイ」である。犯行当日の12月29日に免田栄さんは、人吉駅近くの特殊旅館「丸駒」に宿泊したと一貫して主張し続けた。「特殊旅館」は、売春宿のようなものである。当時16歳の少女が、免田栄さんを接客した。しかし、16歳の少女は、第1審の裁判では、本当の証言をしなかった。その後は、「免田栄さんが、12月29日に宿泊した」と本当にことを言い始める。何故、16歳の少女は、最初免田栄さんのアリバイを否定したのか。少女の母親は、闇商売をしていて、警察官とは親密な関係にあった。免田栄さんは、この少女の母親に「闇商売」のやり方を教えてほしいと訪ねている。黒幕であった警察官が、少女の母親と組んで、女性の身元保証などで利益を得て、あくどいことしていることが露見するのを恐れた。そのために、警察官が、免田栄さんを「祈祷師一家殺害」の犯人にでっちあげた。免田栄さんは、睡眠を奪われて、警察官たちから、殴る、蹴るの暴行を受ける。そのことは、生涯消えぬ傷跡となる。免田栄さんは、「我々は、天皇から選ばれた警察官だ。お前らのような水飲み百姓とは違うのだ。お前一人を殺しても問題にはならない」と言われた、「私はこれを拝命思想と呼んでいますが、今もあまり変わらないじゃありませんか。当時の取り調べを今でも夢に見るんです。」と語っている。免田栄さんが言う通りで、警察の体質は、70年以上経った今もさほど変わっていない。免田栄さんは、「再審無罪」となるまで、獄中34年間。「死刑」に処されことを恐れながらも、強靭に生き抜いた。しかし、「無実」となっても、世間の偏見は、凄まじいものであった。「冤罪」というものが、いかに残酷で人の歳月を奪う「理不尽」なものであるかを免田栄さんは、亡くなる直前まで訴えかけた。私たちは、その思いを絶対に無駄にしてはいけないだろう。